はじめに

(1)序論

(1.1)『中観荘厳論』の研究史

(1.2)『中観荘厳論』解釈の問題点

(1.3)方法(中観派の歴史について考えてみる インド人注釈者による解釈を再検討してみる)

(2)本論

(2.1)中観派の思想史について

◆諸註釈家による二諦説解釈
◆『中論』に対する諸注釈と解釈の相違(漢訳の場合)
◆『中論』に対する諸注釈と解釈の相違(原典・チベット訳の場合)
◆ブッダパーリタ註について
◆バーヴァヴィウェーカ註について
◆唯識哲学
◆ディグナーガの論証学
◆経量部の外界実在論
◆バーヴァヴィヴェーカ注の特徴(再論)
◆チャンドラキールティー註について
◆シャーンタラクシタによる二諦説の解釈
◆ダルマキールティの論証学の特徴
◆ジュニャーナガルバ作『二諦分別論』の内容と問題の所在
◆西洋論理学とインド論理学
◆インド論証学の特徴
◆インド論証学における随一不成とそれに対する「自然言語理解」的解釈

◆シャーンタラクシタの『自注』と、カマラシーラの『複注』による本文の解釈

(3)結論(中観荘厳論における二諦説はどのような意味を持っているのか、そしてその特徴は何か)

* 自我と無我

一般にインドのĀtman(アートマン)という言葉を翻訳するのに、中国語の「我」という概念が使われる。
厄介なことに、これはSelf、the natural temperament or disposition; essence, nature, character, peculiarity と英訳される。これらは「個々に備わった生まれつきの特徴」という意味である。
たしかに、意味的には間違っていないが、キリスト教のように、それら個性に対する「神の愛」はない。とても非情な運命論的な概念である。
しかし、ウパニシャッドなどを読むと、アートマンは突き詰めて考えれば、宇宙の普遍的な本質であるBrahman(ブラフマン)と同じである、という。
ブラフマンは中国語には意訳されず、「梵」と音写される。
仏教では「無我(Anātman)」を説く。これはアートマンが無いことを意味する。アートマンが存在しなければ、当然その対立概念であるブラフマンも存在しない。これが、インドで仏教が受け入れられなかった理由である。
なぜなら、インド社会ではアートマンを認識することに最高の意味を見ていたからである。
アートマンには永遠とか不変であるという特徴もある。これは、カースト制度の基盤にある考え方である。
ゆえに人間は生まれてから死ぬまで、この永遠不変のアートマンに制約されることになる。
仏陀はこの制約的「アートマン」が存在しないと説いた。人間は努力によって変化するからである。
インドでは「個性」というものは、その人の「生まれつき」とか「家柄」に近い概念で理解されていたと思う。
したがって近代社会でいう「個性」とか「個」の概念とは、かなり異なっている。


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■ 「中観荘厳論における二諦の意味」 

はじめに

われわれの生存する世界には、世俗と聖なる世界との区別がある。つまりわれわれは意識するかしないかは別として、常にこの二つの真理を承認し、またそれに従って社会生活を営んでいる。この現象は古来よりわれわれの先人たちが伝えてきた宗教文化の一部でもあり、生活に密着している。

 この二つの真理の区別は古来よりしばしば宗教哲学的な論争の種となり、さまざまな論議が起こった。例えば、キリスト教では聖なる存在とは天国にあるのではなく、われわれ人間のなかにあると主張することにより、すべての人間の平等・自由を主張してきた。これはヨーロッパが近代社会を形成する上で、大きな役割をはたした。

 一方、仏教では、もともとは聖なる存在とは聖なる行為を行なうことによって体験されるものであるとし、言語によってそれを捕えることを拒んだ。しかし、初期の部派仏教などでは、聖なる世界と俗なる世界の区別にかかわるさまざまな問題を哲学的に精密に検討し、それらを概念化した。これが現在伝わる膨大な量の『阿毘達磨』(Abhidharma)文献郡であり、その扱う領域は心理・世界など非常に広範な領域に及んでいる。それはしばしばキリスト教におけるスコラ哲学と対比される、煩雑な哲学体系であった。

 これに対し、大乗仏教という一種の回帰主義がおこった。これはそのような哲学体系に対して痛烈な非難を行なったり、信仰としての仏教を復活させようとしたりした。そのためその主張は、過激な内容となったり、否定的になったりすることがしばしばあった。しかしながら、大乗仏教が本当に目指したものは、現実の社会に対して、いかに仏教が適応できるか、あるいは宗教として成立しうるか、という問題であった。仏教がインド一般においては少数派であり、時代を追うごとにますますその主張が異端視されていく中で、どうやってその宗教性を維持して行けるか。この問題を真剣に扱ったひとびとが大乗仏教を形成したのではないか、と思われる。

 そして、そのような問題の中でもとりわけ重要な主題が、本論文が扱う「二諦説」つまり、いわゆる「聖と俗」の区別の問題であった。大乗仏教がその宗教性を維持するためには、この聖と俗の区別を明確に規定することが必要であったと思われる。大乗仏教ではじめてこの問題に取り組んだのが、ナーガールジュナ(Nāgārjuna)であった。かれは大乗仏教の主張を哲学的に整理し、「空」の哲学を唱えた人物として有名である。かれはその中でこのような「二諦説」に関わる問題を扱い、それを体系づけたのである。

 以後の大乗仏教はこのナーガールジュナの哲学を解釈することによってさまざまな展開を遂げていった。そのなかでも特にナーガールジュナの哲学的見解に忠実であろうとした人々によって中観哲学が形成された。彼らはナーガールジュナの著作に注釈を施すことにより、さまざまな見解を生み出していった。

 さて、これから論じようとする『中観荘厳論』は、大体以上のような経過をたどった大乗仏教の哲学のなかでも、最も後期に成立した論書のうちの一つであり、その内容は大乗仏教が最後にたどり着いた見解を示すものとして、しばしは注目された。そのなかには仏教がそれまで行なってきたさまざまな哲学的探究の成果が述べられ、この書がいわば学説綱要書としての役割も果たしていたことを伺わせる。そのためその内容は難解であり、多くの予備知識を必要とするものになっている。しかしながら、そのなかに説かれる哲学は大乗仏教の哲学的探究の最高点の一つであり、後期の大乗仏教を理解するためには、なくては成らない内容を含んでいる。

 本論文ではこの『中観荘厳論』において解釈される「二諦説」の意味を明らかにし、後期の大乗仏教の哲学的思考を、出来るだけ分かり易く解明して行きたいと思っているが、筆者の語学力の不足と、資料の難解さに阻まれて、当初の目的が見失われている可能性がある。そのためかなり拙い内容になっている。諸賢のご批判を賜りたい。

MAV.=Ichigo M.“Madhyamakālaṃkāra"(Vṛtti),Kyoto,Buneido,1985.

MAP.=Ichigo M.“Madhyamakālaṃkāra"(Pañjikā),Kyoto,Buneido,1985.

MAK.=Poussin L.V.“Mūlamadhyamakakārikās",Biblioteca Buddhica 4,St.Petersbourg,1903-13.


序論

(1.1)『中観荘厳論』の研究史

『中観荘厳論』はインド大乗仏教中観派においてもとくに優れた哲学論書として、注目される。最初に研究の端緒を付けたのが、山口益博士であった。氏はフランスに留学されていたおり、高名な仏教学者プサン(De La Vallée Poussin)の教えを受けた。従ってわが国の仏教学の発展にとっては莫大な恩恵をもたらした人物として、特筆されねばならない。以後の門下には優れた研究成果がうまれたが、『中観荘厳論』については一郷正道氏によるチベット語訳の校訂出版が最大の成果である。これ以降、わが国における『中観荘厳論』研究は格段に水準をあげた(1)。

しかし、その後『中観荘厳論』の作者シャーンタラクシタ(Śāntarakṣita)がいかなる思想的立場をとったかという問題に対して激しい論争が起こった。

梶山雄一はチベット人学僧イェシェーデ著『見差別』(lTa ba'i khyad par)なる書物の記述にしたがって、インドにおいて異なった立場であった、中観派と唯識派が折衷された立場である「瑜伽行中観」なる新たな立場を、『中観荘厳論』がとっていたと主張された(2)。

これにたいして松本史郎氏が『理想』誌上で、この説に対して異議を唱えたのを始めとして(3)、その後山口瑞鳳氏などが主にチベット撰述の註釈書や学説綱要書に基づいて、『中観荘厳論』はそのような立場はとっていなかったと主張された(4)。その論拠として『中観荘厳論』本文には、折衷されたとされる唯識説に対する論駁が見られる、唯識説には大乗仏教が本来論駁の対象としていた自我(アートマン)を承認するかのような傾向が見られる、インドにおける中観派の原典からは「瑜伽行中観」なる概念は見いだされていない、という三点が挙げられる。

その後、山口門下の松本史郎氏は、これらの説を発展させて体系的に論じた。唯識思想はその後、旧来仏教の一派であると考えられてきた如来蔵思想の理論的基盤となるのであるが、それを仏教にあらざるものとして厳しく非難された(5)。その論拠は如来蔵思想が中観派が否定している「実体的な悟り」やその他の神秘主義的概念を中心に説いていることである。さらに松本氏はこれを発展させ、現在日本で行なわれている仏教の理解が、その如来蔵思想を発展的に継承したものであるので「仏教とは言えないものである」、と主張されている(6)。

山口瑞鳳氏の学説は、このように中観派の学説を最終的な拠所とする傾向が強い。しかもそれを大乗仏教の本来のあり方として主張される。しかしこれらの説にも弱点がある。

まず、インドで発見された『中観荘厳論難語釈』の同一著者で、シャーンタラクシタの高弟カマラシーラの手になる『真理綱要難語釈』のサンスクリット原典は明らかに唯識説の立場で書かれており(7)、たとえこれが他のインド哲学諸学説に対する妥協であったとしても、唯識説をなんらかの形で認めていたことになる。もしそうであれば、『中観荘厳論』において唯識説をまったく認めていないとすれば、自説を主張できないことになる。山口瑞鳳氏がとっておられる立場は、おもにチベットの学説綱要書や註釈のなかに説かれる解釈に基づいている。『中観荘厳論』に関する限り、チベット人註釈者の基づいている立場はさまざまであるから(8)、どの註釈書の説に従うかによって解釈の方法がまったく異なってしまう。そのうえ、それらの解釈も『中観荘厳論』の中にみられるインド論理学の手法を正確に理解した上でなされているとは必ずしも言いがたいものもある。後にも述べるように、あるチベット人註釈者による註釈は本文をチベット独特の論理学に基づいて解釈しており、必ずしも本来のインド論理学を踏まえた上でなされているとは言えない(9)。

したがって、一番原典に忠実な註釈は、『中観荘厳論』の著者のインド人の弟子カマラシーラによる『中観荘厳論難語釈』であるといえるだろう。

このような論争は最近のチベット蔵外文献資料の研究成果が格段に進んだ結果起こったものであり、『中観荘厳論』をめぐる解釈の問題が一様ではないことを示している。

現在前述の梶山雄一氏の立場をとって、森山清徹氏は主にインド選述の資料に基づいて『中観荘厳論』以降の瑜伽行中観派の思想的展開に付いて研究を進めておられる(10)。

また山口瑞鳳氏の『中観荘厳論』に対する理解は、仏教のあり方を問い直す論調となって、各方面に大きな影響を与えている(11)。

また、小林守氏はチベット蔵外資料に対する精密な調査をもとに『中観荘厳論』周辺の文献に対する研究を進められている(12)。

海外では、Kennard Lipman氏がチベット人註釈者のうちの一人であるMi pham rgya mtshoの解釈に基づいた『中観荘厳論』研究の成果を発表された(13)。

一方、Tom Tillemans氏はとくに『中観荘厳論』に用いられる「離一多証因」すなわち全ての現象は存在論的に一であるという性質も多数であるという性質ももっていないから、「存在する」という定義はできないという論拠(hetu,reason)について、とくにチベット仏教の中興の祖ツォンカパ・ロサン・タクパによる『中観荘厳備忘録』の解釈によって論じておられる(14)。

以上簡単に『中観荘厳論』に対する研究史を見てきたが、これらの研究は主として『中観荘厳論』の思想的立場及びその中に用いられる論証方法を主題にしている。そのため『中観荘厳論』の中心的な主題である宗教哲学について体系的に述べられたものは必ずしも多いとは言えない。従って以後、『中観荘厳論』が中観派の宗教哲学をいかに展開しているか、という問題、ことにその宗教哲学のキーワードとなる「二諦説」に絞って、それを理解するための補助的な論と共に論じてみたい。


(1.2)『中観荘厳論』における二諦説解釈の問題点

二諦説とはごく簡単に説明すれば、この世界の真実は聖なる真実と俗なる真実の二つの真実に分けられるという説である。しかしこれは後にも述べるように厳密には宗教学者ミルチャ・エリアーデの提唱した聖と俗の概念とは対応しない(15)。しかし便宜上二つの真実のうちの「勝義」が「聖なるもの」、「世俗」が「俗なるもの」と考えてみよう。いったい『中観荘厳論』において、なぜこの問題が扱かわれるのであろうか。これは後に中観派の歴史を考える節で、詳しく解説されるであろう。今は本書の二諦説解釈かかわる問題点を二、三提示して、導入としてみよう。

上山大峻氏はかつて『中観荘厳論』第63偈〜第92偈を主として二諦説に関して論述されている個所として取り上げられ、その二諦説が『中観荘厳論』の作者シャーンタラクシタの先達にあたるバーヴァヴィヴェーカの二諦説によく似ていることを指摘された。それによれば、バーヴァヴィヴェーカは世俗を二つに分け、世間において真実であり、効果的作用能力があって有なるものを正しい世俗(tathya-saṃvṛti)、病眼にみえる幻、そしてウサギの角のようになんの働きもないものを正しくない世俗(mithyā-saṃvṛti)とした。そして勝義にも二があり、それは言葉では表現できない勝義と仏教の教説、そして聞思修の三慧をさすところの、言葉で表現しうる世俗的勝義である。上山氏によれば、シャーンタラクシタには聞思修の実践及び無分別知そのものを世間的勝義とする記述は見当たらないが、バーヴァヴィヴェーカの『中観心論』の偈を引いて論拠とし、勝義にいたる方便としての正しい世俗(=世間的勝義)の重要性を論述する所があり、「シャーンタラクシタの二諦説がバーヴァヴィヴェーカのそれをうけて形成されていることは明白である」(16)と論じられる。

一方、山口瑞鳳氏は正しい世俗(=吟味された世俗)についてバーヴァヴィヴェーカとシャーンタラクシタの理解は明らかに異なっていたとされている。(17)

この問題について『中観荘厳論難語釈』において、「正しい世俗は勝義にいたる足がかりのようなものだ」と言うバーヴァヴィヴェーカの引用と、それに対する説明があるが(18)、上山氏のいわれるような意味での「重要性」はそれほど感じられないし、バーヴァヴィヴェーカが正しい世俗を拠所として勝義を理解し、それを世間的勝義として強調した立場とは明らかに異なっている。これは『難語釈』が正しい世俗について、「(正しい世俗が)いかにして勝義自体であろうか」(19)と述べていることによっても知られるであろう。シャーンタラクシタは後述するように、正しい世俗の論理(インド論理学)と勝義を理解するための論理(龍樹の使用した四句否定の論理)を明確に区別していたので、バーヴァヴィヴェーカの理解とは根本的に同じではなかったのである。これを区別するための論理が整備されるためには、ダルマキールティの登場を待つしかなかったのである。

以上はほんの一例ではあるが、『中観荘厳論』における二諦説が、正確に理解されているとは言えないことをしめす例であろう。

そこで、このような問題を解決するために、(1)『中観荘厳論』の思想史的位置づけ、(2)註釈書の再検討という方法に基づいて論じていくことにしたい。





(1)
『中観荘厳論』のテキストおよび注釈文献については、磯田熙文ほか編『梵語仏典の研究 論書編』平楽寺書店、京都、1990、pp.274-276.に詳しい。それによれば、『中観荘厳論』に対する研究の現状は以下の通りである。 「中観哲学者としてのシャーンタラクシタの思想を闡明にしたのは『中観荘厳論』である。シャーンタラクシタは『中観荘厳論』前半部において「一多の自性を持たないものは無自性である」という一貫した論理を以て一切法の無自性・空を論証し、さらに後半部では無自性性論証に伴う難点や二諦の問題を扱っている。本書はいわゆる <東方自立派三論>の一つで、瑜伽行中観派の代表的論書の一つである。  本書は98の詩頌とそれに対する散文の自注からなり、チベット訳としてのみ現存する。シャーンタラクシタは元来、詩頌と散文の一体となった"Madhyamakālaṃkāra"という名の一作品を著わしたらしいが、チベット大蔵経には98詩頌と、それらの詩頌を含む自注が別々に納められている。近年、デルゲ等の蔵訳本4版を校合し、さらにカマラシーラの註釈Pañjikāを対照させた本書の蔵訳校訂本が一郷正道によって出版された。本書の梵文原典は得られないとはいえ、しかし幸いなことに、梵文として現存する『真理綱要』の詩頌がそのまま本書に用いられていることがある他、多くのパラレル・パッセージがカマラシーラの『真理綱要註』やハリバドラの『現観荘厳明』に見いだせる。一郷前掲書にはそうした関連梵文が蒐集されている。  本書の関連文献として、カマラシーラの註釈Pañjikāがチベット大蔵経に収められている。前述のごとく、一郷によって蔵訳校訂本の出版と梵文の部分的回収がなされている。チベットにはこのPañjikāのカマラシーラ作を疑う説があるが、カマラシーラ作を否定するに足る理由があるとは思えない。 本書の本格的な研究は山口益によって開始された。山口は『般若思想史』において、本書に見られるシャーンタラクシタの教学の特質を論じ、さらに本書の部分的な解読研究を試みた。その後本書の翻訳研究は山口門下の一郷正道によって引き継がれた。」
(2)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(7中観思想)春秋社、1982、pp.30-72.参照。梶山博士はこの論文において、以下のように主張された。すなわち「シャーンタラクシタは瑜伽行派の哲学を尊重し、これを説一切有部(以下、有部と略す)や経量部の哲学よりも高く評価している。したがってかれは、世間的真理の世界を解釈するのに、認識のみが実在し、外界の対象は認識の表象にほかならない、という瑜伽行派の理論を適用した。認識の実在性の根拠は自己認識であるから、かれは当然それを是認し、強調している。こういう事情であるから、シャーンタラクシタとその継承者が瑜伽行中観派と呼ばれるのはもっともなことである。」(ibid.p.31)
 これは主としてチベットの学説綱要書であるイェシェーデ(Ye shes dge)著『見解の区別』(lTa ba'i khyad par)とクンチョクジクメーワンポ(bKon mchog 'jigs med dbang po)著『学説宝環』(gRub mtha' rnam bzhag rin chen phreng ba)の記述に基づいて論じられている。これにはホプキンスなどによる英訳もある。『見解の区別』と『学説宝環』はいずれも「瑜伽行中観」という思想的立場をシャーンタラクシタ師弟がとっていたと論じている。  しかしながら、直接インド成立の文献にこの「瑜伽行中観」という概念は見いだせない。たとえチベットの学僧ジャムヤンシェーパ('Jam dbyangs bshad pa)の学説綱要書『大学説』(Grub mtha' chen mo)の中に引用されるインド側の資料において「瑜伽行中観派」(rNal 'byor spyod pa'i dbu ma pa)という言葉が見いだされたとしても(ibid.p.34)、その記述はサンスクリット原文が確認されていない以上、信用しうるものではない。しかも博士が指摘された部分は密教(Vajrayāna,金剛乗)文献の注釈書からの引用である。したがってその記述は中観哲学とは別のコンテクストすなわち密教においては成立するであろうが、インドにおける中観哲学の思想の系譜を探ろうとする場合、この引用は論拠としては弱いとおもわれる。なぜならこの時代に流行した密教の一派「聖者父子流」(āryapitāputra)に属する密教行者のなかに、そのように中観の立場と唯識の立場を混同して学ぶ立場があったとしても、この時代の実情を考慮するならばさほど不思議なことではないとおもわれるからである。すなわち、ここで挙げられているインド側の資料は「聖者父子流」の開祖とされる聖龍樹(Āryanāgārjuna,'Phags pa klu sgrub)作『五次第』(Pañcakrama)に対する注釈であるラクシュミー著『五次第注』なる密教関係の著作である。後にも少し論じるように、この「聖者父子流」はいにしえの大乗仏教中観派の学僧の名前を借りて著作を著わすのが常であった。したがって中観哲学について密教特有の神秘的な解釈を行なうことも可能であったし、「聖者父子流」的な解釈を施された中観哲学が本来の中観哲学と混同されることも起こりえたと思われるのである。事実チベット仏教の学僧の間ではこの「聖者父子流」と本来の大乗仏教中観派は区別されていなかったので、チベット人の著作を用いる場合、この点に留意していないと両者を混同してしまう恐れがある。さらに、現存のチベット大蔵経にはナーガールジュナに帰せられた作品が多量にあり、以上に述べたようなことが、実際に起こっていたことを示している。
(3)
松本史郎「後期中観派の空思想」『理想』(610)、東京、理想社、1984、pp.140-159.参照。これにおいて松本氏は「シャーンタラクシタが、「世俗唯識説」や「世俗無外境論」を説いたとはまったく認められず、彼が『中観荘厳論』の第九十二偈で説いた「外境の無」は、ただ単に修習の次第としての「方便唯識説」であって、一般的な学説ではないとされるのである。」「シャーンタラクシタもカマラシーラも、さらにジュニャーナガルバさえも、バーヴァヴィヴェーカが拒否した「唯識方便説」を認めたということである。」などと論じられ、シャーンタラクシタは世俗において唯識説(つまりすべての現象を精神作用に還元する独我論的思想)を中観思想の理解にいたるための方便として説いたのであり、それを一般的な学説としては認めていなかった、と主張された。したがって梶山博士がインドにおいて学派として成立したとされる「瑜伽行中観派」が実在したという説や、この学派が勝義において中観哲学を説き、世俗においては唯識哲学を説いたという説は、上記の松本論文に示されるようなシャーンタラクシタの考え方をチベット学僧がよく理解していなかったために生じた誤りであることになる。筆者も『中観荘厳論』のチベット訳のみを読む限りにおいて、松本氏の説に賛成したい。唯識哲学は『中観荘厳論』において明らかに批判されているが、同時にある程度の評価も与えられているので、それを方便として承認していたという説には同意できる。しかし唯識を中観哲学の理解に至る道程であると考えていたかどうかについては、そのようなことはなかった、とおもう。なぜなら両者は全く異なった見解を持っていたからである。  ところで、この論文が以上のような説の論拠としてチベットにおいて最も正確にインド論証学の体系を理解していたと思われるサキャ派(sa kya pa)の学僧シャーキャチョクデンの『中観決着』の記述を引用していることは、この説を裏づける論拠としては評価できると思われる。しかしながら、この論文は全体的にチベットの学説綱要書に基づいて重要な部分を論じる傾向が強いので、サンスクリット原典が残っている類似の文献の引用などの客観的な論拠を欠いていることは否めない。これらの学説綱要書には著者独自の思想が混入している可能性があるので、比較的信用できる説であるにもかかわらず、『中観荘厳論』のサンスクリット原典が発見されていない現在において、この説も全面的に信用することはできないのである。
(4)
山口瑞鳳『チベット』(下)東京大学出版会、1988、pp.176-220.参照。ただし、この資料は「あとがき」にものべられるとおり、「本文で引用と示したり、典拠を掲げてない部分はすべて筆者が関係資料を直接確かめて立論したものから成っている。」
(5)
松本史郎「如来蔵思想は仏教にあらず」『印度学仏教学研究』(35-1)、1986、pp.375-370.参照。
(6)
松本史郎『禅思想の批判的研究』大蔵出版、東京、1994。
(7)
菱田弘道『インド自然哲学の研究』山喜房、東京、1993、p.154.の注(21)参照。菱田氏は『真実綱要』のこの偈にたいするカマラシーラの『難語釈』が「われわれ無相唯識派は」と述べていると論じられる。 しかしながら後にも述べるように、カマラシーラが『難語釈』を無相唯識の立場で著わしたとしても、それが「瑜伽行中観」の実在を示す根拠にはならない。ここで注意すべき点は、そのような総合学派の実在ではなくて、カマラシーラが唯識の教義についてもかなりの知識を持っており、それを中観の立場から批判的に検討することができた、ということである。従って理解の便のために中観哲学よりもバラモン哲学に類似した構造を持っていた唯識哲学が使われたとしても、それはありうることなのである。
『真実綱要』の当該個所の原典を示せは以下のようになるだろう(Krishnamācharya E."Tattvasaṇgraha of ŚāntarakSita."Gaekwad's Oriental Series No.30,Oriental Institute,Baroda,1984,pp.181-182.)

bhāvadbhir api vaktavye tad asmin kiñcid uttare/
yac ca atra vāḥ samādhānam asmākam api tad bhavet//537//
「汝もまた上のことについての回答においてなんらかの説明を与えねばならない。
そして、汝が前に提出した回答がなんであれ、われわれにもそれに対する答えがある。」

それに対するカマラシーラの『難語釈』に次のような一文がある。
samānam etad dvayor api codyam, yato bhavatāḥ api sākāra-anākāra-pakṣābhyām avaśyam anyataraḥ pakṣa-aṇgī karttavyaḥ anyatāḥ artha-grāhi-jñānaṃ na siddhyet/
「この同じものが二つであることも考えられるべきである。または、形象を持つものと形象を持たない二つの主題があることが必要である。一方が主題の一部であるべきであり、他方は対象把握の知であることが成立しない。」

ここでいう同じものとは、形象を持つ知識(Sa-ākāra-jñāṇaṃ)と形象を持たない知識(Na-akāra-jñāṇaṃ)である。この偈に対する『難語釈』の最後の部分に次のようにいわれている。
tad etad asmākam api nirākāra-vijñāna-vādināṃ boddhānām uttaraṃ bhaviṣyati ity acodyam etat samādhānam iti parihāraḥ//

「そして、それゆえにわれわれもまた上に説明した「無形象唯識に従うもの」であるだろう。故に、批判されるべきでないその論証(samādhāna)は、こうして除外されたのである。」

つまり、カマラシーラはこの場合「無形象唯識派」という立場をとっていたのである。ただしそこで注意しなければいけないのは、それはあくまでも批判されるべきでない論証、すなわちダルマキールティ流のインド論証学を除いて、という限定付きであることである。インド論証学が唯識派においては主として「有形象唯識派」(sa-ākāra-vijñāna-vādin)の立場をとっていたディグナーガの後継者たちによって発展したことはよく知られている。ダルマキールティも基本的にはこの立場をとっていたと考えられる。しかし無形象唯識の立場をとっていたスティラマティ(Sthiramati)などは、論証学においては聖言量(āgama)を認識根拠として認めるなど、有形象唯識派とは論証学の方法論において異なっていた。たとえば、Levi.S,"Vijñāptimātratāsiddhi",paris,1925,p.26.には以下のように述べられる。

「さて、正しい認識とは、信頼しうる先師の教え(punar-āpta-upadeśa)、推論(anumāna)、直接知覚(pratyakṣa)である。」
yuktiryogaḥ/ sa punarāptopadeśo 'numānaṃ pratyakṣaṃ ca/
(荒巻典俊訳『大乗仏典』(15 世親論集)中央公論社、東京、1981、p.92.の訳を転載した)
文中のupadeśaは仏教の聖典のことを示しているから、これを認識根拠にしていたことがわかる。これは直接知覚と推論のみを認識根拠とする有形象唯識派の立場とは異なっている)。カマラシーラは師シャーンタラクシタがダルマキールティの論証学にしたがって論じていることを知っていた。しかしカマラシーラがもしも無形象唯識者であったとすれば、師の有形象唯識派の見解と自己の見解とが異なってしまう恐れがある。それゆえ、無形象唯識に従うけれども、論証学については師と同じ見解をとらねばならないので(インドにおいては弟子が新しい見解を述べることは忌み嫌われた)、論証学は除外される、という文を付け加えたと筆者は考えるのである。とにかく、『真実綱要』についてシャーンタラクシタ・カマラシーラのとっていた立場は唯識説であることが、これによって知られるのである。
(8)
ミパン(Mi pham rgyam mtsho)の注釈とツォンカパ(Tsong kha pa)及びその弟子であるタルマリンチェン(Dha rma rin chen)の注釈の注釈方法は明らかに異なっている。前者がニンマ派(rNing ma pa)に属し、実在論的な論法(ミパン注において世俗のものごとの本質は常に「存在する」(gnas pa)といっている)に基づいて注釈しているのに対し、後者はゲルク派(Dge rug pa)の学者であり、アティーシャ(Atīṣa)によって伝えられた帰謬論法(prasaṅga)によって注釈するのである。両者が解釈に使った論証方法はインド論証学とは異なっている(注(9)参照。)

(9)
チベットの論理学はドゥータ(bsDus grwa)とよばれ、インドの論証学とは根本的に異なっている。しかし中には、インド論証学をかなりの程度まで理解していた学僧もあったようである。 福田洋一「サパンのアポーハ論」『日本西蔵学会会報』(36)、1990、p.11.には次のようにのべられている。「チベット論理学にはこのサパンの『リクテル』の見解を受け継ぐサキャ派の論理学と、このサパンより半世紀ほど先立つカーダム派のチャパ・チューキセンゲの流れを汲むチャパ流の論理学という二つの伝統がある。そのうちチャパ流の論理学がインドの原典であるダルマキールティの論理学に対する特異な解釈の上に成り立っているのに対し、そのチャパの思想を批判して『リクテル』を書いたサパンの思想は、ダルマキールティの論理学をかなり正確に祖述している。」
ところで、後に試訳するタルマリンチェン著『中観荘厳の覚え書き』(dbu ma rgyan gyi brjod byang)には、チャパ流の論理学で用いられる論理的変数khyod(普通は「汝」という意味で使われるが、論理的文脈では論理的変数(chos can)の代わりに用いられている。小野田俊蔵「問答(rtsod-pa)における"khyod"の機能について」『日本西蔵学会会報』(25)、1979、pp.4-6.参照)が多く見られ、しかもインド中観派の一派でシャーンタラクシタのとっていた立場である自立論証派(Svātantrika)とは違った立場をとっていた帰謬論証派(Prāsaṅgika)の用いる帰謬(Prasaṅga)を主たる論法としている。したがって、その解釈は必ずしもダルマキールティのインド論証学に照らし合わせるならば正しいとはいえない。またこれはタルマリンチェンの師であったツォンカパが口述したものを彼が筆記したものであるともいわれており、ツォンカパの『中観荘厳論』理解にも問題点があることになる。
(10)
例えば、 Moriyama S."The Yogācāra-mādhyamika refutation of the position of the Satyākāra and Alīkākāra-vādins of the Yogācāra school", Memoirs of the postgaduate research institute bukkyo university 11,kyoto,1983.
(11)
『中観荘厳論』に関しては、以下の三つの論文がある。示唆を受けることが多かった。 山口瑞鳳「「縁起生」の復権」『成田山仏教研究所紀要』(13)、成田山新勝寺、1990、pp.1-57. 山口瑞鳳「シャーンタラクシタの中観」『成田山仏教研究所紀要』(11 仏教思想史論集 1) 、成田山新勝寺、1988、pp.641-683. 山口瑞鳳「三輪清浄の布施」『成田山仏教研究所紀要』(15 仏教文化史論集 2)、成田山新勝寺、1992、pp.577-608.
(12)
小林守「『中観荘厳論』にみられる形象真実説」『印度学仏教学研究』(33)-1、1984。 小林守「『中観荘厳論』とその注釈書をめぐる二、三の問題」『仏教学』(26)、1989、pp.1-20. 以上、二論文が『中観荘厳論』について直接扱ったものであるが、ほかにも弟子のカマラシーラの主著『中観明』(madhyamakāloka)やシュリーグプタの『入真実論』の翻訳研究などがあり、本論文作成にあたって多く参照した。
(13)
Lipman K. "What is Buddhist Logic",Tibetan Buddhism Reason and Revelation (Bibliotheca Indo-Buddhica Series No.124),Delhi,Sri Satguru Publications,1992,pp.25-44.
(14)
Tillemans t."Two Tibetan texts on The "Neither one nor many" argument for Śūnyatā",journal of indian philosophy 12,1984,pp.357-388.
(15)
ミルチャ・エリアーデ著、風間敏夫訳『聖と俗ー宗教的なるものの本質について』法政大学出版局、東京、1969。
(16)
上山大峻「瑜伽行-中観派における唯識説について」『印度学仏教学研究』(10)-2、1962、pp.590-594.参照。この論文の冒頭では次のように論じられている。「八世紀の後半、インド仏教の最後に成立した学派である瑜伽行-中観派(Yogācāra-Mādhyamika)は、爾後のインド仏教の主流となり、またそれまで中観・瑜伽の二学派に対立していた大乗仏教を一応総合した形を示しておつて、この派の教学を究明することは後期のインド仏教の様相と帰結を理解するための鍵になるものと思われる。」 この論拠は示されていないが、上山氏の『中観荘厳論』に対する理解が「瑜伽行中観派」の実在を前提にした上でなされていたことがわかる。
(17)
山口瑞鳳「「縁起生」の復権」『成田山仏教研究所紀要』(13)、成田山新勝寺、1990、p.42.において以下のように論じられる。「シャーンタラクシタの「縁起生」は、知覚の対象として「現在」顕れているものが、知覚の外の滞留のない <時> に、空間的存在でない因を持つという構造であり、外界に刹那滅する対象があって、自らの形象を知覚に投入しているという理解とは全く異なる。従って、バーヴァヴィヴェーカのように、外界の自相は、同種の極微が集積して成立するが、「空」なる勝義は、その背後に見られるというのではない。勿論、ダルマキールティのように勝義では、表象も、対象も「無」であり、虚偽であるとするのでもない。いずれの議論も、勝義として認めず、「吟味された世俗」として否定している」。 解説すると、まず、シャーンタラクシタはナーガールジュナの説いた「縁起」が、知覚以外に存在する留まることのない「時」の流れを原因とするものである、と考えていたと説明する。次にバーヴァヴィヴェーカは経量部の外界実在論をとりつつ、しかも「空」なるものごとの実在をそれらの背後に認めていた。もちろん、ダルマキールティのように唯識哲学の立場をとっていたわけでもない。勝義の立場から見ればどちらも「吟味された世俗」でしかない。なぜなら後にも述べるように、「勝義そのもの」である縁起生には、決して自性は存在しないからである、ということであろう。『中観荘厳論』の原文をみるかぎり、この解釈は的を得たものであるといえる。
(18)
see MPT. p.233. yang dag kun rdzob nyid them skas bzhin du skas yin te/ gom pa'i rten zhes bya ba'i tha tshig go//
「実世俗自体が梯子(them skas)であるような[意味においての]梯子であって、足の拠り所(gom pa'i rten)である、という意味である。」
(19)
see MPT. p.233. des na gang la la gal te tshul gsum pa'i rtags kyis bskyed pa'i blo don dam pa'i sgrar brjod na ni de'i tshe de yang dag kun rdzob kyi ngo bo yin pa'i phyir ji ltar na don dam pa nyid yin/


(1.3)方法

(1)『中観荘厳論』が著わされたのは八世紀である。その当時のインドにはさまざまな哲学説が存在し、そのなかで大乗仏教中観派の学説もさまざまに展開していった。ここでは、これらの学説のおおまかな概略、そしてそのような状況の中で二諦説がどのように展開していくのかについて、この説を大乗仏教で初めて唱えたナーガールジュナに遡って考えた上で、その後の思想史的展開を順を追って考えてみたいと思う。

また、『中観荘厳論』のなかにはインド独特の論証学に対する予備知識がなければ理解しにくい部分が多数存在する。それらに対しての考察も加えながら、理解の一助としてみたい。

(2)先にも少し述べたように、『中観荘厳論』にはインド人の弟子カマラシーラによる『中観荘厳論難語釈』なる註釈文献がチベット語訳でのみ存在する。これによって『中観荘厳論』本文の、二諦説に付いて論じている個所を解読し、それがどのような意味を持っているかについて、論じていきたい。


本論

(2.1)中観派の思想史について

 八世紀のインド大乗仏教中観派の論師シャーンタラクシタ(A.D.705-762)(1)の『中観荘厳論』(madhyamaka-alaṃkāra)はナーガールジュナに端を発する中観派の歴史の中では後期の著作に属し(2)、中観哲学において最も思想的に発展した文献の部類に属すると思われる。なぜならそれは日本においては奈良時代に学問仏教として令名を馳せた唯識(Yogācārin)・阿毘達磨(Vaibhāśika)・因明(Hetuvidyā)の教学をほとんど網羅し、インドの六派哲学の教学をも引用しているからである。しかもそれらの哲学的体系に対して彼一流の中観哲学理解に基づいた鋭い批判を加えている。用いられる術語は甚だ抽象的であり、解釈も種々多様に存在する。

 ところで、シャーンタラクシタは、チベットに仏教を伝えた、日本でいえば鑑真和上に相当する人物でもあり、チベットでは菩薩と呼ばれて尊敬されたと伝えられている(3)。彼はインド哲学一般に対して仏教の無形象唯識派(nirākāravijñānavādin)の立場からの解釈(4)を述べた『真実綱要』(tattva-saṅgraha)を著わしたことで有名であるが、この文献はその内容の豊富さとともに、サンスクリット原典が弟子のカマラシーラによる注釈とともに得られることから、八世紀のインド哲学の情勢を知ろうとする者にとっては、必見の文献となっている。

 以上のような理由から、まず最初に八世紀インドにおける仏教・バラモン哲学・ヒンドゥー教などを概観しておくことが『中観荘厳論』について論じる前に必要であるとおもわれる。

(2.1.1)仏教

 八世紀頃のインド仏教は部派仏教では説一切有部(Sarvastivādin)と経量部(Sautrāntika)が有力であった。

 前者については世親(Vasvandhu)が説一切有部の立場を祖述しつつも経量部の立場からそれを批判した『阿毘達磨倶舎論』(Abhidharmakośabhāṣya)を著作し、衆賢(Saṅabhadra)がそれに対して『阿毘達磨順正理論』『阿毘達磨蔵顕宗論』(5)を著わして反論した五世紀以降、目新しい学説の展開を見せていない。『阿毘達磨倶舎論』に対して複註を著わしたヤショーミトラ(Yaṣomitra)は七世紀の人であるが、学説に関して新たな展開はほとんど見られない(6)。

 一方、後者は大乗仏教の瑜伽行派(唯識哲学を説く,Yoga-cārin)と結びついて、特に仏教論証学の創始者であるディグナーガ(Dignāga)やその論証学の展開者である法称(dharmakīrti)が世俗的な立場から議論を進める場合にこの経量部の立場に立っていた(7)といわれる。

 大乗仏教では中観派(Mādhyamaka)と瑜伽行派(Yoga-cārin)が代表的であった。

中観派にはシャーンタラクシタ以後、彼の弟子カマラシーラ(kamalaśīla)、『現観荘厳論光明』(Abhisamayālaṃkāra-āloka,八千頌般若経に対する注釈である瑜伽行派の創始者とみなされるマイトレーヤ・ナータ(Maitreya-nāta)が著わした『現観荘厳論』に対する複註)を著わしたハリバドラ(haribadra)などが出た(8)。またシャーンタラクシタの師であるジュニャーナガルヴァ(jñānagarbha)は二諦(satyadvaya)について述べた『二諦分別論』(Satyadvya-vibaṅga)を著わし、それ以後のこの派の教学に大きな影響を与えたエポック・メイキングな人物として注目に値する。彼の『二諦分別論』については後ほど内容を検討してみたいと思う(9)。

 瑜伽行派はこの時代、梶山氏などが主張されるようないわゆる「瑜伽行中観」(Yogacāra-Madhyamaka)として世俗諦(覆われた真実,saṃvṛtisatya)では唯識を説きつつ、勝義諦(優れた意味における真実,paramārthasatya)では中観の教義に従うとして存続したか、あるいは山口氏などが主張されるように中観派によって一方的な非難を受けたか、学者により見解が異なる。序論でも触れたように梶山氏などはチベットの大訳経官イェシェーデの『見差別』の記述にしたがって「瑜伽行中観」はインドに実在した(10)とされるが、山口氏は「『中観荘厳論自疏』では正面から唯識を否定する記述があり云々」(11)とされ、「瑜伽行中観」は存在しなかった、と主張される。

 また瑜伽行派は、知識と形象が実在し、かつ両者の本質が同じだとする「形象真実論者」(satya-ākāra-vādin)と、知識の本質である自己認識(svasaṃvid,知識が知識の照出作用を認識すること)のみが実在するとする「形象虚偽論者」(alīka-ākāra-vādin)に分けられるという(12)。

 さらにアーラヤ識(潜在印象の総体,ālāya-vijñāna)が悟りの段階で否定され、知識と形象の区別がつかなくなる(adhvayajñāna,無二智)という立場をとる「無形象唯識論」(nir-ākāra-vijñāna-vāda)と、たとえ悟りを開いてもアーラヤ識そのものは否定されず、知識と形象の区別は付くのだとする「有形象唯識論」(sa-ākāra-vijñānavādin)が存在し、前者は安慧(Sthiramati)の『唯識三十頌』解釈に由来し、後者は有名な玄奘三蔵の師匠でもあった護法(Dharmapāla)の『三十頌』解釈に基づくのだという(13)。

 この時代に活躍した瑜伽行派の論客としてはシャーンタラクシタの論書にもしばしば登場するシュバグプタ(Śubhagupta)がある。

 とにかく瑜伽行派については古来からさまざまに論議されているが、そのうちのほとんどが中国やチベットの僧侶による報告にもとづいている(14)。従って現在のところ一部の碑文の記述を除き、大乗仏教の実体は少なくともインド語による資料の中には見いだされていない。それゆえに大乗仏教は「派閥」(sect)というよりはむしろ個人的な思想的信条のようなものであり、中国仏教やチベット仏教、日本仏教におけるような「宗派」ではなかったとおもわれる(15)。

 以上のようなことから、山口氏や梶山氏が用いられるような「学派」なる概念を当時の大乗仏教に対して用いることは正しくないと思われる。従って筆者には部派仏教が行なったように独立した僧伽(saṃgha)として大乗仏教が成立していたとは思われない。ゆえに「中観派」や「瑜伽行派」という概念は「中観思想家」あるいは「瑜伽行思想家」と呼んだほうが穏当であるようには思われる。

 ところで『中観荘厳論』の著者シャーンタラクシタは「中観学派の自立論証派」(Svātantika)という思想的立場をとっていたされているが、筆者は以上のような理由からそれついても意識しすぎず、基本的には仏教哲学に通堯した一仏教者として考えたいと思う。

 江島も『中観思想の展開』のなかで「中観学派はbhāvaviveka系のsvātantrikaとcandrakīrti系のprāsaṅgikaに分裂した、と単純にわりきられる傾向があった。…少なくとも我々はこの分派の名称それ自体にはあまりこだわらないようにしなければならない。」と述べられている(16)。

 しかしながら本論でも述べるように、中観哲学の中にも見解の相違があったことは事実であり、相違点についての論争も為されたであろう。しかしそれはあくまでも見解の相違であり、分派をきたすほど厳しい論争ではなかったことに留意しなければ、当時の大乗仏教の実情を無視することになると思われる。

(2.1.2)バラモン哲学

(2.1.2.1)サーンキャ学派

 この時代、サーンキャ学派最高の拠所である『サーンキャカーリカー』(Sāmkhya-kārikā)にたいする注釈『ユクティディーピカー』(Yuktidīpikā(作者不明))、『ジャヤマンガラー』(Jayamaṅgalā)が書かれたと思われる(17)。『ジャヤマンガラー』を著わしたシャンカラ(Śaṅkara)はインド最大の哲学者といわれる人物である。しかしながら彼はサーンキャ哲学においてよりもヴェーダーンタの学者としての名声が高く、サーンキャ哲学に対してはむしろ敵意さえ持っていたと言われる。

 『中観荘厳論』や『真実綱要』ではこの学派の代表的な思想である三つの徳(triguṇa,三つの本質)による世界観をとりあげて批判している。

(2.1.2.2)ヨーガ学派

ヨーガ学派は『ヨーガスートラ』を最高の所依とし、その哲学をヨーガの実習を通じて体得しようとした学派であり、前述のサーンキャ学派の哲学との関係が深い。

 この時代にはヴィヤーサ(viyāsa)の『ヨーガスートラバーシャ』(yogasūtrabhāṣya)に対してシャンカラが複註である『ヨーガスートラバーシャヴィヴァラナ』(yogasūtrabhāṣya-vivaraṇa)を著わしている。

(2.1.2.3)ニャーヤ学派

この学派は独特の論証学を用いた世界観を説き、「真実の認識」にいたるためのその論証学を絶対視した。

この学派はウッドヨータカラ(uddyotakara)が仏教にたいしてバラモン哲学を擁護するために著わした『ニャーヤヴァールティカ』(N yāyavārttika)いらい、特に仏教を攻撃した。八世紀に起こった知識論への関心は、仏教との対論の中でますます高まっていったようである。

(2.1.2.4)ヴァイシェーシカ学派

この系統では実(dravya,実体)・徳(guṇa,属性)・業(karman,行為)・同(viśeṣa,特殊)・普遍(sāmānya)・内属(samavāya)という六つのカテゴリー(ṣaṣpadārtha)を変わらないものとして主張し、それによる世界観を説いた。これに対してはシャーンタラクシタも自己の著作の中でかなり言及しているから、八世紀当時相当有力な学派であったのだろう。

(2.1.2.5)ミーマーンサー学派

この学派はヴェーダ(veda)などにとかれる儀礼に関する研究を盛んに行なった。また言語にたいする関心も高く、文法上の規則にも通じていた。

この系統はこの時代『シャバラバーシャ』(Śabarabhāṣya)に対する解釈の相違から、クマーリラ(Kumārira)のバッタ派(Baṭṭha)とプラバーカラ(Prabhākara)のグル(Guru)派に分裂した。クマーリラは仏教を激しく攻撃したが、彼の著作にはしばしば仏教論理学が使われている。この学派で特に重要な著作はクマーリラの『シュローカヴァールティカ』(Śrokavārttika)であり、これにおいて仏教の説がしばしは取り上げられて非難されている。

(2.1.2.6)ヴェーダーンタ学派

この学派はヴェーダ、ウパニシャッドなどの研究を盛んに行ない、後世インドにおいては最も有力な学派として成立した。

八世紀インド哲学において最も重要な人物はこの学派のシャンカラ(Śaṅkara)である。かれはこの系統のゴーヴィンダ(govinda)の弟子であるといわれる。バラモン哲学を再興しながらも、その説には仏教の影響が随所に認められる。

(2.1.2.7)ヒンドゥー教

 七世紀インドに入った玄奘三蔵の記録によれば、この時代、すでに自在神(īśvara)を奉じる塗灰外道や髑婁外道(kāpārika)が存在し、寺廟を拠所としていたという。これは当時全盛を誇ったシヴァ教徒に関する記述であると考えられている。

 七世紀ごろからシヴァ教は次第に勢力を増強し、南インドの聖典シヴァ派をはじめ、九世紀にはカシミールにトリカ(trika)と称する強力な一派が台頭し、シャンカラの不二一元論(advaita)などの立場に立って学派を形成した。のちにシヴァ派はヒンドゥー教の主力を形成し、インドの代表的宗教にまで発展する。

(2.1.2.8)ジャイナ教

ジャイナ教は開祖マハーヴィーラの説いた不殺生を始めとする禁欲的な戒律をまもり、それによって解脱を達成することを目的とする宗教である。仏教との共通点も多く見られる。

この宗教はシッダセーナ・ディヴァーカラが『ニャーヤ・アヴァターラ』(Nyāyavatāra)を著わして以来、論理学に対して強い関心を持つに至った。これはインドではじめて内遍充論(antarvyāpti-pakṣa)を説いた文献として有名であり、仏教にも影響は少なくない。西暦750年頃に活躍したと思われるアカランカ・デーヴァは、仏教論理学者のダルマキールティの論理学に強い影響を受けていた。このほかに、『アープタ・ミーマーンサー・ランクリティ』を著わしたヴィトヤーナンダ、『パリークシャー・ムカ・シャーストラ』を著わしたマーニキャ・ナンディがこの時代に活躍したが、論理的理由の分類にダルマキールティのとなえた同一性と因果関係を取り入れているなど、仏教論理学の影響が各所に見られる(18)。

(2.1.2.9)タントリズム

 独特の神秘的人体生理学と象徴主義はこの時代に著しい展開をとげる。特に仏教、ヒンドゥー教のタントリズムがよく研究されている。これらの特徴としては、性力(śakti)の崇拝、魔術的儀礼(cakrapūjā)などがよく強調されるが、実体はそれほど一面的なものではない。そこには大宇宙と小宇宙の合一といった概念がしばしば見られるが、それはシャンカラの不二一元論も説いていることであってインドにおいては珍しいことではない。

仏教においては密教として発展し、それが中国に伝わって流行したのもこの時代である(19)。

 ところで、『望月仏教大辞典』によれば、この時代東インドベンガル地方に密教の一分派である守護道(nātha-mārga)が存在していた。詳細は知られていないものの、この教団に属する修行者はいずれも妻帯し半俗半僧であり、チベットに密教を伝えたハドマサンバヴァ(Padmasaṃbhava)もこの教団に属し、『中観荘厳論』の作者シャーンタラクシタの妹を妻としていたと伝えられている、とある(20)。この記述から知られることは、インド大乗仏教全体が中観派をも含めて八世紀にはかなり密教化していたということであろう。

 今もなおネパールで尊崇されているマツイェーンドラ・ナータ神などは、この守護道に深い関係を持っているといわれるが、確かな証拠はない。イギリスの文化人類学者ゲルナーによれば、この神はヒンドゥー教徒と一緒にサンフー・グティという一種の講において崇拝されることがある、と報告されており(21)、仏教におけるタントリズムが最終的にはどのような形態をとることになったのかをよく示している。

まとめ

 以上に述べてきたような状況において、大乗仏教が存続するためには二つの道があった。まずはヒンドゥー文化との融合であり、それはこの時代から以後の大乗仏教が密教化していったことに象徴される、シンクレティズム(重層信仰)の道である。もう一つは大乗出家教団として戒律を重視し、仏教本来の教義を存続させようとする道である。これにおいてはいわゆるインド論証学などの、当時のインドで隆盛を極めていた理論的な側面が重視されることになる。シャーンタラクシタはチベットの伝承に依れば、説一切有部系の戒律を受けた出家者であったということであるから、後者に属したと思われる。しかしながら前にも述べたように、彼の妹がパドマサンバヴァの妻であったことや、チベットにパドマサンバヴァを呼んで地鎮祭や土着宗教の降伏などをさせていることを考え合わせれば、彼が密教についてかなりの知識を持っていたことは想像に難くない。彼には密教に関する著作こそすくないものの、大乗仏教にとって密教化が避けがたい道であったということだけは、十分に知っていたと思われる。一部の学者が主張するようにシャーンタラクシタが密教を排斥したということは、一概に言えないように思うのである。

 このようにして仏教のタントラ化は、いままでそれほど重要な問題とされたことのなかった以下に説明するような「二諦説」の議論の必要性を仏教、殊に大乗仏教にたいして要求することになっていったのだと考えられる(22)。


(2.1.7)諸註釈家による二諦説解釈

(2.1.7.1)二諦説とは何か

 二諦とは二つの真実(satyadvaya,bden pa gnyis)という意味である。その二つとは何かというと世俗諦(samvṛti-satya,kun rdzob par bden pa)と勝義諦(paramārtha-satya,don dam par bden pa)である。簡単に言えば、世俗諦とは厳密に検討されない限り好ましく承認されるべき真実であり、勝義諦とはあらゆる言語表現を超えた真実である(23)。

 ところで、有名なミルチャ・エリアーデの『聖と俗』には次のような一節がある。「聖なる空間の啓示は人間に固定した点を与え、それによって混沌たる均質性の中で世界を創建し、現実に生きる検討づけの可能性を与える。俗なる経験はこれに反して空間の均質性と相対性にとどまる。真の見当づけは不可能である。」(24)。

 しかしこの定義は少なくともナーガールジュナに始まる中観哲学においては妥当ではないように思われる。なぜなら仏教における勝義諦は究極的には聖と俗という構造そのものまでも否定してしまうからである(25)。

 しかも勝義諦の特徴としてしばしば使われる空性(śūnyatā,stong pa nyid)という概念(26)は、無自性すなわち、ものごとには不変化の独自の本質、永遠に変化しない本質が存在しないという意味を持っている。以上のようなことから、少なくともエリアーデのいう「固定した点」をナーガールジュナが説いた勝義諦の特徴と考えることはできない。それはどのような表現も、想像も、推論も一切受け付けないからである。「無自性」がどのようなものかは、けっして言語の表現しうる範囲ではない。いかなる特徴も離れているので、「無」と誤解されることもあるが、それは非常に大きな間違いである。これについては『中観荘厳論』を解説する部分で明確になるだろう。

 「二諦説」は大乗仏教の『般若経』(prajñāpāramitāsutram)などを研究し、それらをいわゆる「空の思想」にまとめあげたナーガルジュナ(Nāgārjuṇa,A.D.150-250頃)という人物によって最初に唱えられた。かれはそれを主著『中論』(Madhyamakakārikā,正確には中論頌)において以下のように述べている(27)。

dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharma-deśanā/

lokasaṃvṛtisatyaṃ ca satyaṃ ca paramārthataḥ//(mak.24-8)

「二諦に基づいて、諸仏の法は説示されている。
(それは)世間の理解としての世俗諦と、勝義としての諦とである」

ye 'nayor na vijānanti vibhāgaṃ satyayor-dvayoḥ/

te tattvaṃ na vijānanti gambhīraṃ buddha-śāsane//(mak.24-9)

「二諦の区別を知らない者は、
仏の説かれる教えの中に、甚深な真実義を知ることがない」

vyavahāram-anāśritya paramārtho na deṣyate/

paramārtham-anāgamya nirvāṇaṃ na adhigamyate//(mak.24-10)

「言語習慣(=vyavahāram)に依らなければ、勝義は説示されない。
勝義に到達しなければ、涅槃は証得されない」

 ナーガールジュナの主著である『中論』サンスクリット原典は、現在のところ六世紀のチャンドラキールティ(Candrakīrtī)による注釈の中からしか得られていない。従ってチャンドラキールティによる特殊な解釈がナーガールジュナの『中論』にも混入している可能性がある。『中論』については三枝充悳氏による、すべての引用文献からの偈頌の抽出と和訳がある(28)。

 とにかく、『中論』のこの部分においては、まず真理に(satya)に二種類があり、それは世間世俗諦(lokasaṃvṛtisatya)と勝義諦(paramārthasatya)であると説かれ、そしてこの後に「この二つの諦の区別を知らない人は、ブッダの教えにおいて深い真理を理解しない」といい、「言説によらなければ、勝義は示されない。勝義に到達しなければ涅槃は得られない」と説かれている。これによってナーガールジュナが(1)世俗と勝義という二つの真理の区別(2)言語活動による勝義の設定、を説いたことが確認できる(29)。

 彼以前にこのような真理観を打ちだした思想家があったのかどうかは寡聞にして知らないが、とにかく独創的な考え方であったことだけは確かである。従ってそれ以後の大乗仏教に大きな影響を与えたことがよく知られている(30)。しかしそれ以後の『中論』解釈は一様ではなく、注釈家によってさまざまな異解を生じた。以下にその理由ついて少し述べておく必要がある。

 勝義の解釈に付いてまず考えられるのは、ナーガールジュナが勝義を文字で表現できないものであると定義したのではないかとすることである。もちろん勝義そのものを言葉で表現することは不可能であるが、上に掲げた『中論』によれば、その理解に導くための言葉や論理まで否定しているわけではない。しかし実際にはそのような論理や言葉を「理屈」であるとして、否定し去っている例が多く見られる(31)。

 これまでこのような理解は『中論』に関してはきわめて一般的であると考えられてきた。これによれば、真実は文字で表現できるわけはなく、真実なるものは決して変化しない常住なもので、絶対的な普遍的な存在者でなけなればならないのだ、ということになる。しかしこのような理解をもしするならば、ナーガールジュナの二諦説をまったく間違って理解することになってしまう。なぜなら彼にとってはその矛盾の指摘こそが主要な関心事であったと言えるからである。世間で使われる「言葉」を、その性質を深く理解した上で明晰な「論理」において使用し、インド哲学一般や部派仏教の一部が主張する「実在論」を否定することが、『中論』のメインテーマであったからである。

ナーガールジュナが勝義の理解のために、そのような論理を使用した例として、以下のようなものが挙げられるだろう。ほんの一例であるが、示してみよう。

たとえば『中論』の第十五章第一偈は次のように述べる。「条件と原因によって、スヴァバーヴァが生ずることは可能ではない。条件と原因によって生じたスヴァバーヴァはつくられたものであろう。」(32)。ここでのべられるスヴァバーヴァ(svabhāva)とは漢訳では「自性」と訳されるものである。これはモニエル・ウイリアムズの辞書によれば、“innate or inherent disposition"または“nature"などと英訳され(33)、ものに備わった独自の不変化の性質のことを指していると思われる。ナーガールジュナが言いたいのは、もしそのような自性が、因縁によって何もないところから突然作られるならば、それは不変化の性質ではないことになるだろう、ということである。仏教ではものごとは原因と条件によってすべて生じると考えるので、それと切り離された不変化の「自性」が、そこから突然生じてくることはありえない。「作られるものではない」という定義を持つ「自性」が、ありもしないのに人為的に「つくられることになってしまう」ので、これは間違った主張であることになる。ここで使われる論法は、帰謬(prasaṅga)といわれる一種の背理法である。ここでは、相手の主張の矛盾をあぶり出し、勝義を表した言葉である「無自性」の理解にまで、相手を導くのが論理の役目である。

またナーガールジュナは、のちに説明する「四句否定」の論法を、勝義を示す主な論理として使用している。これは「テトラレンマ」を用いた論法であり、排中律を前提にしないと、理解できない厳密な論理である。これは『中論』において、極めて重要な意味を持っており、以下に示すように、中観思想の後継者たちによって、もっとも重要な論理として、伝承されてゆくのである。

これらの論理は、それまでのインド哲学一般には見られなかった異質な論理であったらしく、インド哲学の中でも特に論理学方面を主に研究したニヤーヤ学派はナーガールジュナの使うこのような論法を正統的な論法として認めないようにして、自派の論理を構築したといわれている(34)。

 次に、ナーガールジュナにおいて世俗とはどのような概念において捉えられていたのであろうか。これについても後世の注釈家によってさまざまな解釈と理解がなされてきた。少なくともナーガールジュナにおいては言語慣習(vyavahāra)が世俗であるとされたというのが定説である。しかしながら後にも述べるようにシャーンタラクシタはそのような解釈が一面的であることを指摘している(35)。

(2.1.7.2)『中論』に対する諸注釈と解釈の相違(漢訳の場合)

 このようにしてナーガールジュナによって説かれた勝義と世俗という概念は、後世の『中論』の注釈家たちによってさまざまな解釈を受ける。じつはこれらの注釈家たちこそマードゥヤミカ(Mādhyamika,中観派)と呼ばれる大乗仏教思想家たちであったのである。

 『中論』という書物は読んでみればわかるように、そのままではほとんど理解できないほど難解な文献である。中国ではこれが青目(Piṅgara?)という人の注釈と一緒に読まれるのが普通であった。このため『中論』という場合、この青目釈をも含んでいるのが普通である。この青目釈はほぼ逐語的な注釈であるが、訳者鳩摩羅什によって創作された独自の思想が盛り込まれている。この青目釈は中国仏教理解のためには欠くことのできないもののうちの一つである。この論では本来『中頌(=中道に関する詩)』とすべき文献についても『中論』の名で統一してある。これは、一般的に『中論』ということによって『中頌』を指す場合が多いからであり、あくまで便宜的な表記であることをお断りしておく。

 『中論』の注釈者は現在知られているだけで七人いる。この中には一般に中観思想家には含まれない無著(Asaṅga)や安慧(Stiramati)が含まれているが、彼らの注釈は漢訳のみにしか伝わっていない。したがってそれ自体あまり信頼すべき注釈ではない、として『中論』を読む際には無視されてきた(36)。しかし一般に『中論』とはあまり関係のない唯識思想家によってこの『中論』の注釈が著わされたという事実は、たとえそれがあまり信用できない注釈であったとしても、それ自体に大きな意味がある。なぜなら、もしそれが事実であるとすれば中観や唯識といった前にも述べたいわゆる「派閥」はインドにおいて、存在しなかったのではないかという推論がますます真実味を帯びてくるように思われるからである。三枝氏によれば無著の『中論』注である『順中論』は『中論』の注釈書というよりはむしろ彼の『中論』観を独自に展開したものであるという。また安慧の『大乗中観釈論』についてはこの注釈が従来「まったくといっていいほど顧みられず、研究も参照もされず、わが国の解読もなされなかった」ものであり、唯一の研究論文として、月輪賢隆氏の「安慧菩薩の大乗中観釈論について」があるだけという。したがって現在のところこの注釈の詳しい内容は知られていない。

とにかく、ここで注意しなければならないのは、これらの論文が示すように、いわゆる唯識派であるはずの彼らの注釈にまったく唯識説が見られないことである。これに付いて塚本氏は「(これらの注釈が著わされたと考えられる)5〜6世紀には、後世いわれるような中観と瑜伽との分裂が、未だ顕在化せず、中観と唯識とはつねに合わせて学習され研究されていたのではないか、そのような想定を可能にするとも言えよう。」(37)と述べられている。

(2.1.7.3)『中論』に対する諸注釈と解釈の相違(原典・チベット訳の場合)

 以上に述べた諸注釈は漢訳の大蔵経に伝わっているものである。それらは漢文で書かれているという性格上、それだけでは確定的な意味を知ることはできない。漢訳経典の解読の難しさは、漢語それ自体の難解さに基づいているのはもとより、それが持つ解釈の可能性の多様さにも原因があるように思われる。とくにそれが認識論や中観関係の著作の漢訳の場合は、よりいっそうの注意が要求される。漢語は文法の規則が厳密でなく、特に論理学のように厳密に概念の定義や、連辞の関係を明らかにしようとすることには不向きな言語でもある。

 一方それにたいして、サンスクリット原典あるいはチベット語訳の文献の場合は、言葉の意味が文脈によってある程度限定されることと、訳語の統一などによって比較的確定的な意味を得やすいといえる。特にそれが認識論や中観・唯識などの哲学・論理学関係の著作である場合には、それらの参照は不可欠である。

 『中論』に関係するサンスクリットあるいはチベット語で書かれた注釈書で現在伝わっているものは、ブッダパーリタの『ブッダパーリタ根本中論註』、バーヴァヴィウェーカの『根本中論註般若燈論』、チャンドラキールティ(Candrakīrti)の『明らかな言葉』(Prasannapadā)、そして釈者不明の『無畏論』である。この中で『無畏論』は逐語的な注釈であり、独自の思想的展開は見られない。しかし、他の注釈はそれぞれが『中論』に対する独自の解釈を示しており、すこぶる重要である(38)。以下にそれらの特徴をまとめてみる。

(2.1.7.3.1)ブッダパーリタ註について

 この注釈は中観哲学において帰謬論証派(Prāsaṅgika)といわれる思想的流れを創始したブッダパーリタ(Buddhapālita)によるものであり、チベット仏教の中興の祖ツォンカパ・ロサン・タクパがこの思想的見解を奉じていたため、チベット仏教にとっては後に述べるチャンドラキールティ註とともに重要な注釈である。以下にこの注釈の特徴を述べてみよう(39)。

 第一にこの注釈は『中論』に対して帰謬法(prasaṅga-anumāṇa)を用いて注釈されたものである。先にも触れたが、帰謬法とは一種の背理法であり、それは仏教僧侶以外の一般の人々が「本当に存在する」と考えて執着するものが、一般の人々の考え方のレベルにおいてさえ存在しないのだ、と主張するための論法として使われる。すなわちこれは勝義の立場から世俗を直接批判しようとする論法であり、その結果として、論証学の軽視あるいは否定をそのうちに含んでいる。たとえばある命題Sが真であることを論証しようとするとき、Sと矛盾する命題非Sを仮定し、この仮定から偽である結論を演繹する。ナーガールジュナが『中論』第一章第一偈で、ある出来事が起こることについて、「もろもろのものごとは自、他、共、無因から起こらない」(40)と主張したことについて、ブッダパーリタの注釈は次のようにこれを解釈する。まずこのナーガールジュナの主張を四つの部分にわけ、かつ、連言(and)で繋ぐと、

ものごとは自分自身から起こらない、かつ

ものごとはその自分自身以外から起こらない、かつ

ものごとは自分自身、かつ、その自分自身以外から起こらない、かつ

ものごとは無原因から起こらない。

となる(41)。

そしてブッダパーリタはこれについて、

 「もろもろのものごとは、自分自身から起こらない。なぜなら[(すでに起こってしまっているものがさらにもう一度起こるという)二度目の]起こることは無用となるからである。または[それらのものごとが]無限に起き続けるという過失となるからである。そして、もろもろのものごとは、自分自身以外からも起こらない。なぜなら、すべてのものごとから、すべてのものごとが起こるという過失になるから。」

と注釈する(42)。

 このようにして、ものごとが「起こる」ということを仮定すること、それ自体が間違いであったという結論を導くことにより、ものごとは起こらない(不生,anutpanna)という『般若経』の言葉を成立させるのである。『般若経』がその中で繰り返し主張していることは、現象世界の「空」であり、それはナーガールジュナの説く勝義諦の意味を如実に示すものでもある(43)。

 このように、ブッダパーリタは言葉自体を否定することによって直接ナーガールジュナの説く勝義諦を示そうとした。しかしこの考え方は後にも論ずるようにナーガールジュナの論じる二諦説の意味を一面的にしか理解していないものであるともいえる。しかもこの四句否定の論法には、文法学的に不十分なところがあった。このため彼の考え方は以下に述べるバーヴァヴィウェーカによって論難されることになる。

(2.1.7.3.2)バーヴァヴィウェーカ註について

 この注釈は、唯識思想家であり仏教における論証学において新たな展開の基礎を築いたディグナーガ(Digṅāga)の論証学的方法論をとりいれたところに大きな特徴を持つ。これにより中観思想家の主張である「全てのものごとが自性(svabhāva)を持たないこと」(sarvadharmāḥ niḥsvabhāvatāḥ,一切法無自性性)を積極的に仏教以外のバラモン哲学説に対して示すことが可能となったのである。当時のインド哲学は一般的にディグナーガ(digṅāga)の論証学の影響を受けつつあったので、この方法はブッダパーリタの用いた論法から比べれば対外的に優れていたし、時代の実情に適合したものであった、ともいいうる(44)。しかしながらバーヴァヴィウェーカの用いる論証式はつねに厳密に論理的であるのではなくて、中には比論ないし詭弁に類するものも含まれている(45)。

 それでは、かれはナーガールジュナ以来の二諦説をどのよう解釈したのだろうか。それを説明する前に、唯識哲学とディグナーガの論証学に付いて簡単に説明をしておく必要がある。なぜならハーヴァヴィヴェーカ以後の中観哲学は、唯識哲学とディグナーガの論証学の展開とに深く関わっていたからである。また、ディグナーガの論証学には厳密でない部分があり、バーヴァヴィヴェーカがこれを用いて中観を説くことは、無理があったことも理解しておく必要があろう。

(2.1.7.3.2.1)唯識哲学

 唯識とはサンスクリットでヴィジュニャプティ・マートラ(vijñapti-mātra)の訳であり、「すべてこの世はただ心象のみにすぎない」ことを意味する言葉である。この主張を保持する仏教の一学派を「唯識派」(識論者,Vijñānavādin)または「瑜伽行派」(Yoga-ācāra)と呼ぶ。この考え方によれば、想起された姿、想像された姿は、単に姿が現れているにすぎないのであって、その存在の根拠は記憶力、想像力に求められる。換言すればこれらの姿は単なる「心の中での」現れにすぎないことになる。

 しかし実際には全ての現象が「心の中での」現れであると主張するならば、論理的に無理が生ずる。たとえば「犬小屋の中の犬」は犬が小屋の中にいるときには見えないが、それが外に出て来るならば見ることができる。この場合、犬が知覚されていないことは、犬が存在していないことと同じではない。この場合唯識説によれば犬の「考えられた姿」は(不変の)主観的な認識に所属しており、それゆえに考えられた通りの犬に餌を与える、散歩をさせることが可能なのである。つまり、犬という認識が心の中に存在しているからこそ、外界に存在しているように現れる、ということである。これと同じことは夢や錯覚の例でも考えうる。縄を蛇であると間違って認識する場合、その蛇の認識はそれが実際には縄であったということを知るならば打ち消されるが、その場合その縄がなんらかの形で蛇の認識の現れに関与していたということができる。要するに我々の心の中には認識に対する一種の惰性あるいは傾向が存在し、それに基づいて外界の対象(唯識説によればこれらはすべて自己認識である)を判断するのである。もしこのように考えるならば、われわれの想像、記憶、思考、知覚、錯覚などの全ての認識を、認識される姿のたち現れとしてのみ処理して、認識されている姿に対応する認識対象を別個に想定しないという立場が理解されるであろう(46)。

 しかしこのような唯識説の認識論は、認識が認識そのものとは別に実在することを認めているので、仏教的な思想傾向からは逸脱しているという意見がある。この唯識が示す認識論よれば、外界の対象であると我々が考えるものが心のたち現れにすぎないのであるから、夢や錯覚などの一般に間違った認識であると考えられるものと、われわれが生存するために必要な認識とが混同されてしまう可能性がある。したがって唯識説に従うならば「真の認識」と「間違った認識」とを想定せざるを得ず、世界を説明するために「間違った認識」である夢や錯覚を比喩として示し、その比喩によって世間一般の認識が間違いであり、夢や幻のごときものであることを示さざるを得なくなる。なぜなら彼ら唯識思想家は世間の認識が根本的に間違った認識であるということを仏教の立場として示す必要があったからである。しかし、この世間離れした認識が仏教の示す真理であるというのはおかしい。なぜなら、その認識は仏教が批判しているはずの客観的実在である実体を持つ認識に基づいて構築されているからである。従ってこれに従うならばたとえ外界がすべて否定されても、最後までその認識は残ることになってしまうのである。この見解はバラモン哲学におけるブラフマン一元論による認識論と大変わりしない。要するに、世間の認識を誤った認識とすることにより、その誤った認識によって「真実の認識」を決定していることになるので、その「真実の認識」自体が実は誤った認識であった、ということになるのである。このために唯識思想は中観思想家によって「仏になってアーナンダの顔が見えなくなったのか」と嘲笑されたという(47)。

 また、唯識思想は認識から独立した客観的存在に関する言及はすべて誤りであると見る。認識が内蔵する認識の表象以外には知り得ないと考えるのである。このように想定した上で、本当は実在しないにもかかわらず、あたかも実在するように考えられているものを遍計所執性(parikalpitasvabhāva,構想されたもの)、虚妄な分別を依他起性(paratantrasvabhāva)、見るものと見られるものが無い世界を円成実性(pariniṣpannasvabhāva)に配分し、虚妄分別に基づいた上で主観と客観のない無二知(adhvayajñāna)を得ることがナーガールジュナの二諦説のうちの勝義諦にあたると主張した。

 また、唯識思想は心のみが存在するという独特の存在論を説く。それによれば人間の心には五蘊(pañcaskandha,物質的存在)・十二処(dvādaśāyathana)・十八界(aṣṭādaśadhātu)のほかに無表識(avijñapti-vijñāna)なる一種の潜在意識が実在する。そしてそれを人間における一切の認識の根拠であり、かつ存在の根拠であると考える。これは二種あり、その二種とは微細な自我意識であると考えられる末那(manas)と名付けられる識(mano-nāma-vijñāṇa)、あらゆる潜在印象(種子bīja)が洪水のように一瞬一瞬変化しながら流れていると考えられる阿羅耶識(ālāya-vijñāna)である。全てはこの阿羅耶識のなかの種子が主体と客体の関係(saṃbandha)を作りだし、それがさまざまに展開することにより新たな種子を生み出し、種子を変化させていく。この種子が変化する過程は識転変(vijñāna-pariṇāma)とよばれている。そしてこの主体と客体の関係、言い換えれば認識するものと認識されるものの関係、が実は微細な自我意識によるものだと言うことを見抜き、それを対治することにより、主観と客観が共に存在しない知すなわち無二知を得て勝義諦を認識することができるとした(48)。

(2.1.7.3.2.2)ディグナーガの論証学

 ディグナーガ(Digṇāga,480-540頃)は、同時代の仏教内外のさまざまな論理思想を批判的に検討し、独自の論理学体系を構築して、「仏教論理学派」ともよばれるべき新たな学統を創設した。インドには古来より現在で言えば「論理学」にあたるような学問分野として「ニャーヤ」(nyāya)が存在した。しかしそれはギリシャ以来のいわゆる西洋論理学とは根本的に視点を異にしている。西洋論理学が名辞と名辞の間の包摂関係の研究をその主題としているのに対して、インドの「ニャーヤ」はものを直接論証のための論拠として用いる帰納法的な論証手段を用いる。このためインドの「ニャーヤ」には西洋論理学のような真かまたは偽のうちのどちらか一方を真理値としてもつ命題は存在しない。あるのは具体的なもの自体を含んだ「パクシャ」(pakṣa)という議題だけである。そしてそれを論証するために「ヘーツ」(hetu)という具体的な理由を示すのである。その「ヘーツ」に相当する具体的なものは火があることを示すための煙、あるいは全てのものが無常であることを示すための壺など、枚挙にいとまはない。しかし西洋論理学からみればこのような帰納的な論法は帰納的誤謬という誤りを犯すことになる。いかに大量の理由を並べ立ててみても、それからはまったくアルゴリズム(問題解決のための段階的手法)は得られない(49)。しかもその主題をうらづけるものは結局は演繹された真理でしかない。この点に気づいたのか、気づかなかったのかは分からないが、後の十一世紀ごろになるとバラモン教や仏教の「ニャーヤ」においても演繹的な論法が用いられるようにはなっていった。しかしそれからまもなく仏教がインドにおいて滅びたために仏教論理学に関してはこれ以上の発展はなかった(50)。

 バラモン哲学においても、十三世紀のケーシャヴァミシュラ(Keśavamiśra,1275頃)がヴァイシェーシカ学派のカテゴリーを用いて認識の対象を確定したり、主題と論拠の間の不変の随伴関係を用いた推論(51)を行なうなど、より進んだ面が見られるようになったが、結局、論証の形式自体はおおきな変化を遂げることはなかった。このような事実を考えるにつけ、インドの「ニャーヤ」を論理学と呼びうるかどうかに付いては、筆者は疑問を生ぜざるを得ない。むしろそれは「論証学」と呼んだほうが適当であるようにすら思われる(52)。ゆえに以降、インド「論理学」をインド「論証学」と呼び換えて使用する場合がある。

 さて、このような特徴を持つインドの論理学の中において、独自の論理的手法を確立したディグナーガはそれ以後の仏教を初めとする諸宗教の論理体系に与えた影響が少なくなかった。それではその独自のものとは何であったのだろうか。以下に簡単に説明する。

 まず、確実な認識手段(pramāṇa)について、かれは直接知覚(pratyakṣa)と推理(anumāna)の二種のみを認める。これは当時のインド一般の傾向から考えれば、聖典による証言(śabda/āgama)と比定(upamāna)を独立の認識手段として数えず、推理の中に含めるというまったく新しい考え方であった。しかしこれは彼以前の仏教論理学者やヴァイシェーシカ学派の一部によってもすでに主張されていたので、彼の独創ではない。彼の独自性は認識対象に付いて、直接知覚の認識対象(prameya)は個別相(svalakṣaṇa)であり、推理の認識対象が一般相(sāmānyalakṣaṇa)であるとはっきりと区別した点にあるといわれる。

 そして次に、論証式をそれまでの五分作法から三支作法にあらため、論証の理由となる因(hetu)について、それが正しい理由であるためには三つの条件が必要である、としてそれを展開している。たたしこれもディグナーガの独創とは言えない。その三支作法とは、

(1)あの山(dharmin,pakṣa)に火(dharma1,liṅgin)がある(主題)

(2)煙(dharma2,liṅga)があるから (論拠)

(3)およそ火(dharma1)のあるところには煙(dharma2)がある。例えばかまどのように(実例)

という三段階によって論証する方法である。これは換言すれば、推理の対象である「あの山」と同類のものである「かまど」にのみ「煙」があるから、「あの山」には「火」がある、ということである。この推論の中で論拠となっているのは「煙」であるが、この「煙」が正しい論拠であるためには条件として、(1)「あの山」に「煙」があること、(2)「あの山」と同類のものである「かまど」など(同類群,sapakṣa)にのみ「煙」があること、(3)「あの山」とは同類でない「湖」など(異類群,a-sapakṣa)には「煙」が決して存在しないこと、が必要である。そしてこれらによって「およそ「火」のあるところには「煙」がある」というような「不可離の関係」が導き出される。つまりこの場合、「火」によって「煙」が遍充される(vyāpta)ということが「不可離の関係」である。

 次に彼の認識論の中で特徴をなすものは、アポーハ(apoha,排除)論と呼ばれるものである。これは換言すれば、例えばわれわれが牛を知覚するときには、牛以外の概念を排除(apoha)してその後に、これが牛であるということを知る。そのようにしてすべての認識は他者の排除(anyāpoha)によって成立する、ということである。

 その他にも彼の論理学・認識論における特徴的なものは見られるが、説明が長くなるので以下に簡単にまとめておくことにしよう。(1)認識論・知覚説における「自己認識」の理論。これは先に説明した唯識派の認識論をまとめたものである。(2)論理学における「九句因」の創案。これは、論証のための論拠を正しい論拠となるための条件によって九つに図示したものである(53)。

(2.1.7.3.2.3)経量部の外界実在論

 バーヴァヴィヴェーカ註は上に示したようなディグナーガの論証式を用いて中観学派が主張する「全ての現象が自性を持たないこと」を論証しようとしたところに特徴があると前に述べた。しかしながらかれの注釈を読む場合には、さらに外界実在論を説く部派仏教の経量部(Sautrāntika)の認識論も考慮に入れておく必要がある。なぜならその思想を理解することによって、ディグナーガやダルマキールティの論証式がもつ特徴が明らかになるからである。それゆえ以下に簡単に説明することにする。

 経量部に関しては今のところまとまった著作は知られていないが、他思想家との論争の中にその思想の一部が引用されており、断片的に知ることができる。この部派の主な論争相手は北インドに大きな勢力を持っていたと考えられる説一切有部(sarvastivādin,Vaivāśika)である。この部派の著作は比較的まとまって残っており、その思想についてもよく研究されている。その名の通りこの部派は、すべての現象を五位七十五法と呼ばれるカテゴリーによって説明し、しかもそのカテゴリーの実在性を主張した。そのためそれらのカテゴリーの実在を認めない大乗仏教から攻撃されるが、大乗仏教自身がこの部派の思想から多くのものを借用しているので、どの程度の攻撃がなされたのかは明らかでない。むしろ大乗仏教はこの部派と切り離しがたく結びついていたと考えるほうが妥当であると思われる。とにかくこのような立場をとっていた経量部に付いては、近年では京都大学の御牧克己によってチベットの宗義書に述べられるものがフランス語訳され、比較的よく知られるようになった(54)。この部派の特徴を簡単に示すのははなはだ難しいのであるが、大体以下のような特徴を持っている。まず経量部は心作用(心所)は心の様態の差別にすぎないと考え、正統派であった部派仏教の説一切有部のようには心作用と心とは別な実体であるとは認めない。

 次に、説一切有部の理論では心の外にあって心を規定する要素として心不相応行(citta-viprayukta-saṃskāra)が考えられている。これによれば心不相応行とは「このようなもろもろの作られたものは心によって結びつけられたものではなく、そして色形の本質でもない。故に心不相応行といわれる(55)として、得(prāpti)、非得(aprāpti)、同分(sabhāgata)、無想(āsaṃjñikaṃ)、滅尽定(nirodha-samāpatti)、命(vīvita)、相(lakṣaṇa)などを挙げている(56)。経量部はこれらの心不相応行のいちいちの実在性を否定し、そのかわりとして行為の潜在余力である種子(bīja)説を展開してゆく。これはのちに大乗仏教に取り入れられて有名になる業(karman)の思想体系の仏教における出発点とも言いうるものである。

 そして次に説一切有部において因果関係の上にない存在として考えられていた無為(asaṃskṛta)、すなわち空間(ākāśa)、知恵による滅(pratisaṃkhyānirodha)、ものの単なる非存在(apratisaṃkhyānirodha)の三つを実在として認めなかったことが特徴としてあげられる。

 このように経量部においては心作用の大部分と心不相応行と無為という説一切有部が打ち立てたカテゴリーを認めず、独特の物心二元論とでも言うべきものが打ち立てられていたことがわかる。また認識論においても経量部は「認識の対象とは知識に自らの形象を投げ入れる原因である」とし、外界の存在は実在するが、ただそれは心によってその実在することが推理されるだけであり、しかもその推理された実在は知識に写し出された形象(ākāra)であるとしている。このような認識論は仏教論理学者のディグナーガやダルマキールティが世俗における認識を説明するために使ったことは以前にも述べた(57)。

(2.1.7.3.2.4)バーヴァヴィヴェーカ注の特徴(再論)

 経量部についてざっと見てきたが、チベット仏教の伝承によればバーヴァヴィヴェーカ註の作者バーヴァヴィヴェーカは世俗の立場ではこの経量部の外界実在論にしたがっていたといわれる(58)。

ここまでバーヴァヴィヴェーカ注の特徴について理解するために、前提となる唯識哲学、ディグナーガの論理学、経量部の認識論について簡単に説明した。バーヴァヴィヴェーカはこれらの前提を用いて、彼自身の思想的立場である『中論』の注釈を為したのである。これらの前提になる仏教思想と論証学が、中観以外の他の仏教徒との「対話」のための位置に置かれている点は、この注釈の特徴と言えるだろう。

彼の用いたディグナーガの推論式にはつねに「真実においては」という限定語が必要であった。これは、もしそのような限定語がないならば、すべての存在物の無自性空を主張するための彼の論理体系自体が崩れ去ってしまうという事実に基づく。さらにディグナーガの論証学が、世俗的実在を前提としなければ成立しない論証学であったためでもある。実在を前提する限り、非実在を示すためには、「真実においては」という限定がどうしても必要だったのである。

かれは論証式を立てるとき、すでにナーガールジュナによって述べられた勝義と世俗の区別を前提にしていた。このため彼の論証は、仏教の勝義を体得している聖者以外には詭弁としか取られないようなものが多いのである。

 例えば「(主題)勝義においては、内部の認識の拠所(āyatana)はそれら自身から起こったものではない(論拠)それらはすでに存在しているから(同類例)意識のように」という推論式があるが、これには妥当な論拠(hetu)がなにも示されていないのではないか、と対論者に指摘される(59)。

 前にも述べたように妥当な推論式が成立するためには、主題には決して所属しない異類例(vipakṣa)を示す必要があった。この場合、主題の属性である「存在する」という性質にたいしては、意識のような「存在する」同類例を示すことは可能であるが、一方の「存在しない」ものは、具体的な異類例を示すことはできない。従って、ディグナーガの示した正しい論拠のための三つの条件をこの推論式は満たすことができない。

 バーヴァヴィヴェーカはこの推論式が異類例を持っていない理由として「異類例はただ存在しないだけだから、異類例が存在しないからといって、論拠が存在しないことにはならないである。それゆえに、この場合と、その他すべての同類例においても異類例が示されないことについての間違いはないのである」(60)とのべて推論式の妥当性を主張しようとするが、これは明らかに詭弁である。

 バーヴァヴィヴェーカの推論式には以上に示したような詭弁が随所に見られる。

しかしながら、上の一見こじつけのようにも見える論証式も、いったんナーガールジュナの説いた二諦説を前提に考慮するならば、詭弁にはならないのである。

 上の推論式は『中論』の第一章第一偈についての注釈につけられたものであるが、このなかに「(すべてのものは)自身から生じない(MMK.1-3)」という主張がある(61)。バーヴァヴィヴェーカが言おうとしているのはまさにこのことにほかならないのである。

 つまりその推論式の主題である認識の拠所は「自ら生じないからこそ(=不生である、または縁起=空である)」世俗においては存在しているように思われるものにほかならないのである。簡単に言えば勝義においては世俗において存在しているように思われるものが、すべて存在していない。そのことをバーヴァヴィヴェーカは当時のインド論証学で一般的であったディグナーガの論証式によって、間接的に説明しようとしたのではないだろうか。だが、バーヴァヴィヴェーカはこの点に関しては、それを駆使してうまく論証できているとは言えなかったといえよう。なぜなら、ディグナーガの論証学は「実在するものを前提とした」論証学であったからである。

これは先に述べたブッダパーリタの用いる帰謬論証法とは根本的に違う論法であった。

この後バーヴァヴィヴェーカの論証方法は、インド論理学における論証式を用いるという点で「自立(=svatantra)論証」と言われた。またバーヴァヴィヴェーカは絶対否定(prasajya-pratiṣeḍha)と相対否定(pariyudāsa)という二つの否定形式を用いたが、それはブッダパーリタの論においては、この二つの否定形式がはっきり規定されていないことによって矛盾が生じていることを指摘したものであり、以後の中観哲学に影響を与えた。

バーヴァヴィヴェーカの空性論証においては、必ず具体的な実例を示す必要があるにもかかわらず、それができない、と先に述べたが、これを解決しない限り、すべての物事に自性がないという事を示すことは不可能である。この問題を最終的に解決したのが、後に述べるシャーンタラクシタであった。

(2.1.7.4)チャンドラキールティー註について

 チャンドラキールティは七世紀に活躍した人物で、ブッダパーリタが用い、そしてバーヴァヴィヴェーカによって批判された経緯をもつ帰謬法による論証方法を復活させる方法をさがしもとめた。彼の主な論争相手は先にものべた唯識派や仏教論理学者たちであったと考えられている。彼は勝義とは言葉を否定したところに実在する「本質」であると考え、世俗を言語活動を本質とするものであると考えた。そしてその結果としてインド論証学を軽視し、宗教的実践や修行を重視した。たとえその思想的立場を対論者によって非難されても、かえって対論者の主張自体に誤りを見いだし、それを指摘することによって、その主張の構造を崩すことに重点をおいたことは、彼の二諦説解釈の程度をよく示している。従ってこの立場は対論者に対して開かれた立場ではない。フランスの仏教学者ルエッグ(Ruegg)はこのような論法を実用主義的な提議方法であると評している(62)が筆者は賛成できない。

彼の論法は『中論』解釈にもそのまま適用された。彼は「縁起」という言葉を「依存において作られたもの」の意味に解し、『中論』の第一章の有名な八不の偈、つまり「不滅不生(anirodham anutpādam)、不常不断(anucchedam aśāśvatam)、不一不多(anekārtham anānārtham)、不去不来(anāgamam anirgamam)」において明らかにそれらを対立概念であると捉え、その直後に述べられる「縁起」(pratītyasamutpādam)という言葉に対し「縁って起こること」(pratītya-samutpāda,不変化詞)という解釈を加える。つまり彼が言いたいのは、生じないという条件によって滅しないと言うことが起こるということであり、その「言葉」あるいは「概念」の間に原因と結果の関係を見いだし、その結果、あらゆる概念否定に終始したのである。これは一般に「相依性縁起」といわれる「縁起」理解の発展した解釈である、と考えられている。この理解をまとめたのが、チャンドラキールティであったと思われる。これはオリジナルの「縁起」解釈(=「これあるがゆえに、かれあり」という此縁性縁起解釈の方が、オリジナルな理解である)ではない。

 これについて山口瑞鳳氏は先にも述べたように「これは世俗(=言語習慣)が本質的に間違いであるという前提のもとに言葉そのものを否定する見解であり、ナーガールジュナの思想の意味を正確に捉えたものではない」と論じられる。これはこの節の最初にあげた『中論』の二諦偈に「言語習慣によらなければ、最高の真実は解き示されない」(MMK.24-10)という言葉があることを論拠にしていると思われる。

 このように、チャンドラキールティが注釈で「言語習慣」を広義に解釈して「あるがままの世俗」としていることから考えられることは、偈においてまったく同じ比重でとかれているはずの勝義と世俗が、チャンドラキールティにおいては明らかに勝義にたいする方便(upāya)としての世俗であることである。つまり世俗は勝義に依存しているとするのである。この論法に従うならば仮に世俗が否定されれば勝義も存在しないことになる。それに気づいたかどうかは知らないが、注釈の中で「かならずあるがままの世俗が最初に是認されていなければならない」と述べられている。

 また、チャンドラキールティはこの世俗を二つに分けた。これは 損なわれていない感官による世俗の認識 それ以外の病気などによって損なわれた感官による認識であり、前者の認識が世間の立場からして真であり、後者のものは虚妄である、と言われている。ただし、このように定義される世俗も後節でも述べるように、たとえそれが世俗の立場からして真であっても、虚妄な本質に基づくものにすぎないとされており、勝義との依存関係のもとに理解されていたことは否定できない。

このように帰謬論証派の解釈によれば、世間で行われる言語習慣は、世俗のレベルにおいても完全に否定されることになる。

しかしながら、この見解に従うと、大きな問題が浮かび上がる。それでは、一体、この世界で目の前に繰り広げられる「現実」とは何であるのか? 幻には違いないのかもしれないが、通常人間はそのように考えていない。また、幻だと認識し、究極的な論理を用いて言葉を否定してしまったら、それはどこに何を見ることになるだろうか?「勝義」の範囲を、そこまで過大に適用してしまって良いものだろうか?

結局は「この現実世界の外側に、一般の人が決してみることのできない世界」を作り上げることになってしまうのではないだろうか?これは外界の世界とは隔絶された領域に、独自の世界を作り上げてしまう結果になってしまうのではないだろうか?なぜなら、世間とコミュニケートするための言語が、世俗のレベルにおいても存在しないわけであるから。

 ところで、このようなチャンドラキールティの帰謬論法重視の態度は、後にチベット仏教のゲルク派の開祖ツォンカパ・ロサン・タクパに大筋正確に受け継がれ、チベット仏教の主流を形成した。この学系には、後に和訳する『中観荘厳の覚え書き』の著者ギャルツァプ・タルマリンチェンも含まれている。そのなかに「〜ということになる」という表現が頻出するが、これは議題となっている言葉が必然的に否定されてしまう、という意味で使われている。これなどはチャンドラキールティの帰謬論証の祖述であるようにも思われる。またこの注釈はチベット独特の論理学に基づいて論じるという一面も持っている。これはシャーンタラクシタ子弟の用いた自立論証の影響を大きく受けた論証学であった(63)。

(2.1.7.5)シャーンタラクシタによる二諦説の解釈

 シャーンタラクシタは先にも述べたように、チベットに仏教を伝えた人であるだけでなく、優れた中観の学匠であった。しかしながらすでに彼の師匠であるジュニャーナガルバ(Jñānagarbha)はナーガールジュナの二諦説解釈に対する独創的な論文『二諦分別論』を発表していたので、シャーンタラクシタもそれに影響されるところが非常に大きかったと思われる。従って彼の論述自体はそれほど独創的なものではない。実際に彼の主著『二諦分別論』にはシャーンタラクシタによる難語釈『二諦分別論細疏』が残っている。ジュニャーナガルバの論書には先にも述べたディグナーガの注釈者で仏教論理学の大成者であるダルマキールティ(Dharmakīrti)の論証学の知識が前提にされている個所がある。そのため、以下にごく簡単にダルマキールティの論理学持つ特徴について述べ、その後『二諦分別論』の内容を簡単に紹介することにする。

(2.1.7.5.1)ダルマキールティの論理学の特徴

 ダルマキールティは先に述べたディグナーガの思想にしたがい、その理論を発展させ、独自の展開を遂げさせた。彼が仏教内外に与えた影響は大きく、とくに彼の活躍した七世紀以後のインド仏教はダルマキールティの論理学の理解なしには考えにくい。彼の論理学の特徴は(1)論理的理由(論拠)を、本質的属性(svabhāva)、結果(kārya)、非認識(anupalabdhi)の三つに限ったこと(2)論拠が主題にたいして必然的な随伴関係を持っていること、つまり論拠が必然的・普遍的な随伴関係を主題に対して持つと確認されて始めて、その推理が確実なものとなることを主張したのである。

 このようにしてダルマキールティは、「なにが必然的・普遍的随伴関係の根拠なのか」という問題を探究し続けたのである。それは基本的にはディグナーガのとった帰納論証的な立場であった。しかし彼が独創的だと言われるゆえんは、その帰納的論証に、普遍性・必然性を求めようとしたことそれ自体にあるといわれている(64)。これは演繹的な議論の方法により近いものである。

 ダルマキールティはこの必然性の根拠が「同一関係(tad-ātmya,AがBの本質そのもの(svabhāva)であること)」と「因果関係(tad-utpatti,A(結果)の本質はB(原因)から生じるということ)」である、と言っている。

 たとえば、対論者が仏教の教理であるものごとの無常性(作られたものは必ず滅する)の論証に対して、不滅という性質を持ったものがある可能性もあるではないか、と反論するとダルマキールティは全てのものには効果的作用能力がある、という論拠を持ってくる。この効果的作用能力とは実際的な場でのなんらかの結果、効果をもたらす能力のことである。つまりダルマキールティの主張は、永遠になんらかの効果をもたらす作用など、経験的にありえないから、ものごとは全て無常なのだということを含意している。これは「無常性」と「効果的作用能力」とが、前述の「同一関係」を持つことを用いた論証であるが、効果的作用能力を持ち続けるものが経験されない、という帰納された真実が、普遍性を持つものであるという前提の下で議論が展開されているのである。この点、ダルマキールティの議論の進め方は、より演繹的である。

 さらに、彼はそれまで見られなかった「非認識(tad-anupalabdhi)」という論拠を使用した。たとえば「AあればBあり」という肯定的論証が成立する場合、否定的論証においては「BなければAなし」という形でAの非存在が確実に論証されるのであり、そのばあい、Bが認識されないことが、Aの非存在を論証するための論拠となると言うことである。また逆に、Bが認識されることが、Aの存在を論証するための論拠となることもできる(65)。この「非認識」という論拠は、まさにシャーンタラクシタがものごとの空性を証明しようとするときに、はじめて用いたものである。シャーンタラクシタはこの論拠を『中観荘厳論』のなかで極めて重要な論拠として用いている。「存在」の反対概念が「非存在」であるということを明確に定義し、そしてそれによって推理が可能であることをダルマキールティが指摘したことは、それまでのインド論理学にはない新しい展開であった。これに関しても、直接経験された現象から普遍的な真理を見出し、それを論拠として推論を進めようとする、より「演繹論証」的な姿勢が認められる。

(2.1.7.6)ジュニャーナガルバ作『二諦分別論』の内容と問題の所在

 ジュニャーナガルバはシャーンタラクシタの師と見なされる人物であり、先に述べたバーヴァヴィヴェーカの創始した中観哲学自立論証派の見解を持っていたと見られる。ただしそれはバーヴァヴィヴェーカとは論証方法において異なっていた。バーヴァヴィヴェーカがディグナーガの論証学を用いて「空」を論証しようとしたのに対し、ジュニャーナガルバはダルマキールティの論証学によってそれを証明しようとした。しかもその論証学によってナーガールジュナの説いた勝義諦を明らかに出来ると考えていた。

 ジュニャーナガルバはこの『二諦分別論』の冒頭に、偉大な先輩たちによって誤解されてきた二つの真実(二諦)の区別を再び区別し直すと宣言する。そしてその次に、この二諦の区別を理解するものは誰でも、仏の教えを誤解しないと言っている。

 次には具体的な二諦の区別が示される。それによればまず、仏は二つの真理を教えた。二つとは世俗と勝義である。そして顕現(yathādarśana)と一致するものだけが前者であり、それとは違うあるもののみが後者であるという。そのうえで勝義は正しい理由のみだと言っている。この「正しい理由」とはジュニャーナガルバの自註によれば、ダルマキールティによって訂正されたディグナーガの「三つの条件を持つ論拠」、すなわちそれらの「三つの条件を持つ論拠」に「確定している」という形容詞が付け加えられたもの(66)、によって吟味された論拠を指す。つまり正しい論拠だけが絶対的な真理だと言い切っているのである。

 このように、ジュニャーナガルバの極端と思えるまでのダルマキールティの論証学重視の姿勢がここにはっきりと見ることができる。その次には唯識思想の特徴ともいえる自己認識(svasṃvid)は不可能である、と言って否定する。以下世俗諦の説明、そしてそれが正しい世俗(tathya-saṃvṛti)と正しくない世俗(mithyā-saṃvṛti)の二種によって説明されること、どんな因果関係も知りえないこと、仏教内の諸学説の批判、とつづき、最後にブッダの三身すなわち法身、受用身、変化身の説明で終わっている。

 以上に簡単にこの書の概略を示してみたが、この書の特徴は、仏教内の諸学説を批判していること、そしてそれらが批判の対象となるのは彼の対論者たちが二諦の区別をダルマキールティの論証学的方法に基づいて行なっていないという理由による。この点は世俗を論じる場合のシャーンタラクシタの論述にも確実にひきつがれたと思われる。

 またこの書物の論述形式はこれから述べようとする『中観荘厳論』にも大枠受け継がれている。

 さらに、かれは密教関係の著作と唯識派の依拠する経典『解深密経』にたいする注釈を著わしたと言われているが、エッケルはそれを否定し、「ジュニャーナガルバ三人説」をたてて、詳しく論じている(67)。





(1)
Vidyabhuśaṇa s.c. "A History of Indian Logic",Delhi,Motiral Banarasidass,rep.1988,pp.323-327.参照。伝記と論理学関係の著作の解題が示されている。そこにおいてダルマキールティの『論争の規則』(Vādanyāya)に対する注釈『論争の規則細注』(Vādanyāyavṛttivipañcitārtha)のサンスクリット原典が発見されていない、と述べられているが、現在これは発見されて出版されている。しかし筆者は未見である。Sānkrtyāyana r."Dharmakīrti's Vādanyāya with the commentary of Śāntarakṣita",Appendix to the journal of the bihar orissa reserch society vols.11:12,Patna,1935:p.36.
(2)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(7 中観思想)春秋社、東京、1982、pp.18-24.参照。
(3)
Kriśnamācārya e."TattvasaGgraha of Śāntarakṣita", Gaekwad's oriental series No.30 vol 1,Baroda,Orientai Institute,rep.1984,foreword,p.3.参照。「著者はチベットでは以下の三つの名前でよく知られていた。すなわち、シャーンタラクシタ、シャーンティラクシタ、そしてアーチャールャボーディサットヴァである。」最後の名前は「規範師である菩薩」を意味するサンスクリットである。
(4)
菱田弘道『インド自然哲学の研究』山喜房、東京、1993、pp.153-154.なお序論の注参照。
(5)
桜部建『仏教の思想』(2 存在の分析<アビダルマ>)角川書店、東京、1969,p.160:p.275.参照。これらは玄弉三蔵による漢訳のみ存在する。
(6)
原典がヴァスヴァンドゥによる『自註』とともに出版されている。Śastri s.d. "Abhidharmakośa \& BhāSya of Ācāryavasubandhu with Sphuṭārthā Commentary of Ācārya Yaṣomitra",Varanasi,Bauddha Bharati,1987.
(7)
御牧克己『岩波講座・東洋思想 第八巻』(インド仏教 1)岩波書店、東京、p.232.参照。
(8)
『現観荘厳論』(Abhisamayālaṁkāra)はハリバドラによる複注『現観荘厳論光明』(Abhisamayālaṁkārāloka)とともに校訂出版されている。荻原雲来『梵文現観荘厳論より見たる般若波羅蜜多釈』山喜房、東京、1932。『中観荘厳論』も多数引用されているので、これにより部分的にサンスクリット原典が得られる。この中でも特に重要な部分は「真如の考察と名付けられる第十六章」(Tathatā-parivarto nāma Ṣoaśaḥ,前掲書pp.617-664.)である。これには森山清徹氏による英訳がある(序論の注(10)に示した論文がそれである)。『現観荘厳論』はチベットにおいて重要視され、これに対するチベット人による注釈は多数存在する。最近出版されたのはチベット仏教では正統派と見なされるゲルク派の学僧ジェツン・チューキ・ギェルツェン(rje tsun chos kyi rgyal mtshan)によって1469年につくられた注釈である。rje tsun chos kyi rgyal mtshan "rgyan 'grel spyi don rol mtsho(2 Volumes)",Karnataka,Library of Gaden Jangtse Monastery,1994.
(9)
Eckel M.D. "Jñānagarbha on the Two Truth",New York,State University of New York,1987.は『二諦分別論』の研究、英訳、テキスト校訂を含んだ優れた業績である。以後『二諦分別論』について述べる場合は、主としてこの文献に基づく。
(10)
梶山雄一『講座大乗仏教』(7 中観思想)春秋社、東京、1982、p.51.には以下のように述べられる。「エシェデの『見解の区別』の段階で、経中観が「般若経に随う中観者」、瑜伽行中観が「瑜伽論に随う中観者」であったことが事実であるとしても、後代の学説綱要書が前者を「経量部に拠る中観者」、後者を「瑜伽行派に拠る中観者」と解釈したことには意義があるし、間違いとはいえない。」。しかしこの部分に述べられることが、なぜ「間違いとはいえない」のか、注記がないので知ることはできない。序論参照。
(11)
山口瑞鳳『チベット』(下)東大出版会、1988、p.218.参照。ここに示される主張の論拠は何なのか、この資料にも注記がないので知るよしもない。しかしもしそれが『中観荘厳論』第44偈以下第48に偈までに対するシャーンタラクシタの『自註』の記述を指すとすれば、それは誤謬であるといえる。たしかにこの部分において唯識が非難されていることは事実であるが、同時にそれなりの良い評価も受けているのである。たとえば、第45偈に対する『自註』において、「この見解は認識根拠とはなはだ清らかな聖典によって理解されるべきである。そして果てしない外境が存在すると論じる者たちの悪い執着を治療するものであるから、たいへん明晰なものである。」(see MAV p.124. lugs 'di tshad ma dang lung shin tu gsal bas shes par bya ba dang/ dmigs pa can mtha' yas pa dag gi mngon par zhen pa ngan pa'i gnyen po yang yin pas shin tu dkar ba ste//)と述べられているが、これは唯識を正面から非難しているといえるだろうか。この場合唯識をなんらかの形で評価していたと考えるほうが、妥当であるといえる。ただし中観哲学の立場から論じる場合にはそれが厳しく非難されるのである。中観と唯識とは明確に区別されていたから、決して混同されることはなかった。
(12)
梶山雄一『仏教における存在と知識』紀ノ国屋書店、東京、1983、pp.70.参照。
(13)
服部政明『認識と超越<唯識>』(仏教の思想 4)角川書店、東京、1970、pp.22-24.参照。
(14)
塚本啓祥『岩波講座・東洋思想第10巻』(インド仏教3)岩波書店、1989、pp.387-398.参照。八世紀における大乗教団の存在を示すものは現在のところサンスクリット、チベット語、漢語において残っている膨大な量の経典・論書類と、中国人でインドへ旅行した義浄三蔵の旅行記『南海寄帰内法伝』しかない。これについては平川彰『インド仏教史』(下)春秋社、東京、1979、pp.197-227.に詳しい。平川博士はチベットの伝承についても述べておられるが、これは以前にも述べたように密教の「聖者父子流」と正統な中観哲学の混同の結果であり、とうてい信用しうるものではない。従って『南海寄帰内法伝』の「大乗といっても、中観と瑜伽の二派だけである」という記述が当時の大乗仏教の実体を示す唯一のものであるといってもよかろう。さらに、インドにおいて発掘された碑文の中で、この時代の大乗教団への寄進を銘刻した事例は皆無に等しい。この事実は、当時の大乗教団の実体とその存在について多くの疑問を提起する。一方、この時代の一般に部派仏教といわれる教団の実体を示す資料は多量に残っており、これによって部派仏教についてはこの時代インドに実在したことが知られる。  ところで、大乗仏教の起源について、大乗教団が仏塔信仰のもとに形成されたという説と、信仰運動として部派仏教の中から生じたという二つの説がある。筆者が考えるに、大乗仏教はその両者として存在したのである。なぜなら、一般に大乗経典は、殊にその中でも『般若経』は、部派仏教の説一切有部の哲学に対するアンチテーゼとしての「空」の思想を説いており、それは部派仏教の哲学と切り離しては考えにくい。また、仏塔信仰に関する記述も『法華経』『阿弥陀経』などの大乗経典の各所に見られる。この点について筆者は後期密教経典『秘密集会タントラ』(guhyasamājatantra)の記述により、後世になると特に在家の密教行者などが仏塔信仰の主役であったと考えている(see Matunaga Y. The Guhyasamāja Tantra",Osaka,Toho Shuppan,1978,p.24. Catūratnamayaṃ stūpaṃ raśmijvālāvibhūṣitam/ jñānodadhiṃ triyaṃ sthāpya ālayan tu vicintayet/12)。従って大乗仏教は一つの大きな思潮であり、教団というはっきりした形はとらなかったものの、思想のひとつとして仏教徒一般の間に奉じられたと考えるのである。ただし両者はチベット仏教がなしたように、混同されてはならない。  以上のように、大乗仏教の実体についてはさまざまな説があり、種々の研究成果があるが、それはこの論文のテーマではないから、それについていちいち述べることはできない。
(15)
塚本啓祥前掲論文参照。
(16)
江島恵教『中観思想の展開』春秋社、東京、1980、p.193.参照。
(17)
Gerald J.L.ed."Sāṃkhya a Dualist Tradition in Indian Philosophy",Encyclopedia of Indian Philosophy,Delhi,Motilal Vanarsidass,1987,pp.14-18.に著者の一覧がある。
(18)
cf. Vidhyanabhuṣana S.C. "History of Indian Logic",p.186:p.191.
(19)
前田専学『ヴェーダーンタの哲学』平楽寺書店、京都、1980、pp.86-87.参照。これによればシャンカラの真作と考えられる『ウハデーシャサーハスリー』(upadeśasāhasrī)の主要なテーマは、ウパニシャッドに述べられる大聖句(mahāvākya)「汝はそれなり」(tat tvam asi)であり、シャンカラはこれについて最も長く論じている。ここでシャンカラは「汝」が小宇宙である真実の自己(ātman)を指し、それが同時に大宇宙である梵(brahman)の一部分である、と論じている。このようなシャンカラの神秘主義的宗教思想は一般にインドでは不二一元論(adhvaitavāda)とよばれ、それ以後のインド哲学のみならずインド文化全体に大きな影響を与えた。この思想の起源は古く、とくにウパニシャッド文献郡に多く見られる。 中国における密教の流行及びその後の発展については松長有慶『密教』中央公論社、東京、1989、pp.139-141.参照。
(20)
塚本善隆ほか編『望月仏教大辞典 第九巻』(補遺 1)世界聖典刊行会、東京、1963、pp.386.参照。
(21)
cf. Gellner D. "Monk Householder, And Tantric Priest",London,cambridge u.p.,1992,pp.91-92.
(22)
山口瑞鳳『チベット』(下)東大出版会、1988、pp.206.参照。ここで山口博士はおそらくチベット史書の記述を論拠として「シャーンタラクシタのタントラ仏教擁護論は彼の主張を理解できなかった者による偽作としか考えられない」と述べられる。しかし実際はタントラ仏教との関係を示唆する記述や文献が残っている。それゆえ、これらのタントラ文献は山口博士が述べられるように「偽作」であるか、またはシャーンタラクシタが「二重人格」であったから書かれたものである、と述べることは時代背景を考えるならば、正しいとは思われない。シャーンタラクシタの弟子であるカマラシーラが密教的な教養を持っていたことはすでにわかっているし、その師匠が密教について何も知らなかったということはできない。しかもシャーンタラクシタ以後のインド仏教は中観と密教の両方を兼学するいわゆる「顕密双修」が主流になっていく。  ただし、以前にも述べたように「聖者父子流」がシャーンタラクシタの名を借りて著作をなした可能性はある。いずれにしても、山口博士も論及される『真実成就』(tattvasiddhi)についてはいまだまとまった研究成果が現れていない。今後の研究が期待される。cf.Tohoku No.3708,de kho na nyid grub pa zhes bya ba'i rab tu byed pa,Tattvasiddhi nāma Prakaraṇa : Taibei ed.vol.32,pp.107-110.
(23)
cf. Lopez D. "A study of Svātantrika",New York,Snow Lion Publications,1987,p.204.。これによれば、世俗は「現象がそれ自身の特徴によって確定される」(前掲書p.212)性質を持っており、勝義は「世俗的真実の現れを超えた存在の様相が存在し、そしてその存在の様相は、中観派によれば、それが理解されたとき苦しみの終わりをもたらす現実性の最後の本質である。いうなれば、この存在の最後の様相は、世俗の真実と勝義がともに同時に存在するという意味で適当であるそれと同一のものである。世俗の真実に関する真実の存在の欠如は、その最終的な本質である。」(前掲書p.217)

(24)
ミルチャ・エリアーデ著、風間敏夫訳『聖と俗ー宗教的なるものの本質について』法政大学出版局、東京、1969、p.15参照。
(25)
立川武蔵『「空」の構造』第三文明社、東京、1986、p.136-138.参照。ここには四句分別の否定により、仏教における「聖」なる世界である涅槃(nivāna)が排中律を用いて否定されている。その時点でエリアーデのいう「聖と俗」の構造は崩壊する。なぜなら、聖なる世界を否定することによって、俗なる世界のみが存在することになるからである。ナーガールジュナにとって、エリアーデのいうような「聖なるもの」はそれを定義づけること自体が誤りであり、決して「存在する」ことはない。立川氏はこれを以下のように説明するが、筆者は賛成できない。「これは否定されるべき「俗なる」言語活動を止滅させ、「聖なる」絶対真理に至った覚者が、俗の世界にもどり、一度は死滅させた「俗なる」言語活動を教説として「再生させた」すがたと考えられる。」(前掲書p.145)仮にこの説に随うとすれば、「聖なる」絶対真理はなんらかの形で説かれることになってしまい、正しくない。なぜならそれによって決して定義できないはずである「勝義」が存在することになってしまうからである。言語活動はあくまでも世俗において「のみ」成立するものであり、言語活動では表現できないことを表現することはそれ自体が不可能である。つまりそのようなものは始めから存在しないのである。
(26)
北畠利親『月称釈 中論』永田文昌堂、京都、1991、P.122参照。:cf. Pousin L.V."Mūlamadhyamakakārikās", Biblioteca Buddhica 4,St.Petersbourg,1903-13,p.495. 「実に世俗的な真理というものは、ただ単に無知のみによってできあがっているが、無自性(niḥsvabhāva)であることを悟って、その勝義の相である空性を現に理解している修行者は、[常見と断見という]二辺[=極端]に陥ることはない。いま存在していないものがかつて存在したであろうか、というように、以前に存在の自性を認めないから、後からも存在しないものであることを認めない。」[]内は筆者が補った。 saṃvṛtti-satyaṃ hy ajñānamātra-samuttha api taM niḥsvabhāvaṃ buddhvā tasya paramārtha-lakṣaṇāṃ śūnyatāṃ pratipadyamāno yogī nāttadvaye patati / kiṃ tadāsīdyadidāno na asti ity evaṃ pūrvṃ bhāvasvabhāva anupalambhāt paścād api nāsti padyate/  ただしこれはチャンドラキールティによる解釈であるから、勝義そのものを「空性」という言葉で言語表現しようという傾向が見られる。シャーンタラクシタはのちに述べるように、このようなナーガールジュナ理解を誤りであるとして批判している。つまり勝義においては全てのものごとに自性がないのであるから、言葉にもそれはないはずなのである。
(27)
三枝充悳『中論』(下)第三文明社、東京、1984、pp.639-641.:cf. Pousin l.v."Mūlamadhyamakakārikās", Biblioteca Buddhica 4 ,St.Petersbourg,1903-13,p.492-494.
(28)
三枝充悳『中論偈頌総覧』第三文明社、東京、1985。参照。
(29)
北畠利親『月称釈 中論』永田文昌堂、京都、1991、p.121。ここでは釈者チャンドラキールティが世俗を定義している。「それゆえに、涅槃を証得する方便なるものであるから、必ずあるがままの世俗が最初に是認されていなければならない。たとえば水を求めるものにとって器が[求められる]ようなものである。」(see Poussin ed. p.494. tasmān nirvāṇa-adhigama-upāyatvād avaśyam eva yathā vasthitā saṃvṛtir ādāv eva abhyupeyā/ bhājanam iva salila-arthana iti//)
つまり、世俗は勝義に至るための手段であり、勝義に至れば捨て去られてもよいものである、といっているのである。これはチャンドラキールティの二諦説理解を端的に示す一文でもある。北畠氏は最後の文を「たとえば水を求めるものにとって器が[求められる]ようなものである。」と訳しておられるが、筆者はここにおける水(salila)を勝義、器(bhājana)を世俗の比喩であると考えるので、原文通り「水にとって器が手段であるようなものだから」という意味と見たほうが良いと考える。
(30)
中村元『インド思想史 第二版』(岩波全書 213)岩波書店、1968、p.128-133.参照。
(31)
松本史朗『禅思想の批判的研究』大蔵出版、東京、1994。これにおいて松本氏は禅思想を「思考の停止を説くもの」として体系的に非難している。 田中良昭ほか訳『大乗仏典』(11 敦煌2)中央公論社、東京、1989、pp.285-290.には中国の禅僧摩訶衍とカマラシーラとの論争の一部が含まれた『頓悟大乗正理決』のチベット文断片が沖本克己氏によって訳されている。そこではそのような想念(おそらく論理なども含む)は地獄などに落ちる原因となるから正しくない、と述べられている。
(32)
立川武蔵『「空」の構造』第三文明社、東京、1986、p.117参照。
(33)
cf. Williams M. "A Sanskrit-English Dictionary",London,Oxford U.P.,1899,p.1276.
(34)
長尾雅人編『世界の名著 1』(バラモン教典 原始仏典)中央公論社、東京、1969、p.396.および平川彰など編『講座・大乗仏教』(9 認識論と論理学)、春秋社、東京、1984、pp.43-52.参照。梶山博士はこの論文において、『ニャーヤスートラ』と『廻争論』の関係について論じておられる。これによればナーガールジュナが知っていたのは『ニャーヤスートラ』の第一章と第五章だけであり、帰謬法が「誤った論難」であると定義される第二章は、ナーガールジュナ以後の成立である、という。つまり第二章はニャーヤ学派が自派の論理を擁護するために、後世付け加えたのである。
(35)
see MAP. p.203.:後述するように、ここでは言語習慣(あるいは活動,いずれも原語はvyavahāra)の本質を世俗である、とすることは誤りである、と述べられている。従って定説のようにナーガールジュナが世俗を言語習慣であると見なしていたということは、チャンドラキールティの解釈にしたがう限りでは可能である。
(36)
三枝充悳『中論』(上)第三文明社、東京、1984、pp.18-34.参照。
(37)
前掲書pp.23-26.参照。
(38)
宇井伯壽など編『西蔵大蔵経総目録』名著出版、東京、1970。によれば、これらの注釈にたいする書誌的記述は以下のようになっている。(1)p.579,No.3842.[tsa. 158b1-281a4],dbu ma rtsa ba'i 'grel pa buddha pā li ta,Buddhapālitamūlamadhyamakavṛtti(以下略).(2)p.581,No.3853.[tsa. 45b4-259b3],dbu ma'i rtsa ba'i 'grel pa shes rab sgron ma,prajñāpradīpamūlamadhyamakavṛtti.(3)p.582,No.3860.['a 1b1-200a7],dbu ma rtsa ba'i 'grel pa tshig gsal ba shes bya ba,Mūlamadhyamakavṛttiprasannapadā nāma.(4)p.578,No.3829.[tsa 29b1-99a7],dbu ma rtsa ba'i 'grel pa ga las 'jigs med,Mūlamadhyamakavṛttyakutobhaya.
(39)
平川彰など編『講座・大乗仏教』(7 中観思想)、春秋社、東京、1982、pp.122-127.参照。以下の論述はこの論文の説にしたがう。
(40)
三枝充悳『中論』(上)第三文明社、東京、1984、p.95.参照。参考として原典を示す。na svato nāpi parato na dvābhyāṃ nāpyahetutaḥ/ utpannā jātu vidyate bhāvāḥ kvacana ke cana//
(41)
Tohoku.No.3842.: Taibei.vol.34.page391.folio322.『ブッダパーリタ註』が示す第一偈は以下の通りである。 bdag las ma yin gzhan las min/ gnyis las ma yin rgyu med min/ dngos po gang dag gang na yang/ skye ba nam yang yod ma yin//
(42)
see ibid. bdag las zhes bya ba ni bdag nyid las zhes bya ba'i tha tshig go/ de la re zhig dngos po rnams bdag gi bdag nyid las skye ba med de/ de dag gi skye ba don med pa nyid du gyur ba'i phyir dang/ skyes ba thug pa med par gyur ba'i phyir ro/
(43)
「不生」(anutpatti,anabhinirvṛtti)という言葉は『金剛般若経』『八千頌般若経』などに見いだすことができる。see Vaidya p.l. “Mahāyānasūtrasaṅgraha part 2", Buddhist Sanskrit Texts No.17,darbhanga,mitiler institute,1961,p.88,line 9.“nirātmakeṣv anutpattikeṣu":see Vaidya p.l. “aṣṭasāhasrikā prajñāpāramitā", buddhist sanskrit texts No.4,Darbhanga,Mitiler Institute,1960,p.13.line 11-12.“evam eteSāṃ sarvadharmāNāṃ yā asvabhāvatā , sā an-abhi-nir-vṛttiḥ".なお『中論』の帰敬偈における「不生」(anutpanna)は“anutpatti"の過去受動分詞形である。
(44)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(7 中観思想)春秋社、東京、1982、p.153参照。
(45)
長尾雅人編『世界の名著』(2 大乗仏典)中央公論社、東京、1967、p.288参照。
(46)
長尾雅人ほか編『岩波講座 東洋思想 第八巻』(インド仏教 1)、岩波書店、1988、pp.288-313.及び同講座第十巻(インド仏教 3)、1989、pp.223-240参照。
(47)
山口瑞鳳『チベット』(下)、pp.187-195.参照。
(48)
長尾雅人ほか訳『大乗仏典』(15 世親論集)中央公論社、東京、1981、pp.31-190.参照。 そこに訳される『唯識三十論』は唯識哲学の基本的な哲理を述べたものとして有名である。
(49)
ヒラリーパトナム著、野本和幸ほか訳『理性・真理・歴史』法政大学出版局、東京、1994、p.187.: putnam h. “reason,truth and history" ,London,Cambridge U.P.,1981,p.125.これによれば、初歩的な演繹論理においてはアルゴリズムは発見されたので、それが帰納論理にも発見されるかも知れないという期待がかつて喚起されたことがあった。しかし今日までのところ、わかっているのは完全に形式的な帰納論理学はありえないということである。インド論証学も帰納論証学の一種であるから、いくら試みても、完全な形式化は不可能なはずである。
(50)
梶山雄一『仏教における存在と知識』紀伊国屋書店、東京、1983、pp.127-130.参照。
(51)
Vidyabhuśaṇa e. a history of indian logic,delhi,motiral banarasidass,1920,p.318.参照。
(52)
北川秀則『インド古典論理学の研究』鈴木学術財団、1965、p.3.参照。これについては次節で触れる。
(53)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(9 認識論と論理学)春秋社、1984、pp.104-152.参照。
(54)
長尾雅人ほか編『岩波講座 東洋思想 第八巻』(インド仏教 1)、岩波書店、1988、pp.226-260.参照。: cf. Mimaki K. Le chapitre du blo gsal grub mtha' sur les Sautrāntika Présentation et Édition, Zinbun No.16,Kyoto,1979,pp.175-210.
(55)
see Śāstrī S.D. Abhidharmakośa \& BhāSya,Varanasi,Bauddha Bhāratī,1987,p.210.“ime saṃskārā na cittena samprayuktāḥ, na ca rūpasvabhāvā iti cittaviprayuktā ucyante".
佐伯旭雅『冠導阿鼻達磨倶舎論1』法蔵館、京都、1978、pp.176-177。「論にいわく、かくのごときの諸法は心と相応せず。非色等の性にして行蘊の所攝なり、このゆえに心不相応行と名づく」
(56)
前掲書参照。
(57)
長尾雅人ほか編『岩波講座 東洋思想 第八巻』(インド仏教 1)、岩波書店、1988、p.232.参照。
(58)
松本史郎「lta ba'i khyad parにおける中観理解について」『曹洞宗研究員研究生研究紀要』(13)、1981、pp.98-108.参照。この論文において松本氏は次のように主張される。「筆者は、ŚāntarakSitaの著作(mav)は、asaGgaの『瑜伽行』(rnal 'byor spyod pa,yogācārabhūmi)、即ち、『瑜伽論』に依存して書かれたものと理解されたので、「瑜伽行中観」とよばれ、Bhāvavivekaの著作は、『般若経』等に依存して書かれたものと理解されたので、「経中観」と呼ばれたのである、と考える。」そしてさらに次のように述べられる。「従来の研究では、「瑜伽行中観」「経中観」という呼称は、一般に学派名であると理解されていたと思われるし、「瑜伽行中観」の瑜伽行とは、「瑜伽行派」(yogācāra)を指し、「経中観」の「経」とは、「経量部」(sautrāntika)を指す、と考えられていたようである。このような理解は、後世の、特にゲールク派に属する学僧たちの手になるgrub 'mtha文献における中観の学派区分に関する知識に基づいていると思われる。」  この説には肯定しがたい点がある。なぜなら第一に、この論文の主張が『見差別』のみをほぼ論拠としていることである。他に論拠とされる漢訳の註釈書には「依経中宗」という言葉がみられるが、サンスクリットの原語sautrāntikaはsūtrāntaが形容詞化したものであり、もともとの意味は「経典を拠所とする者に関する」あるいは「経典を拠所とする者に属する」であるから、「依経中宗」と訳されたところで、なんら問題はないのである。第二に、バーヴァヴィヴェーカは世俗のと立場としてのみ、仏教論証学を承認していたことが認めらる(戸崎宏正『仏教認識論の研究』(上)大東出版社、東京、1979、p.54参照。: Lopez D.S. A Study of Svātantrika,New York,Snow Lion Publications,1987,295-313.参照)。その場合、もし「経中観」の「経」を『般若経』であるとすれば、『般若経』を哲学体系にまとめたナーガールジュナや、その後継者である中観哲学者の全てを含むことになる。従って「経中観」という言葉は「経」ということばと「中観」ということばを並べていっているので同語反復であることになる。従って、その場合わざわざ「経」という言葉を付する必要はない。  以上のような理由から「経中観」の「経」を『般若経』の意味に解することには疑問を生じざるを得ない。ゆえに「経量中観派」という解釈は正しいと思われるのである。それは世俗において方便として「経量部」の見解、すなわち仏教論証学を用い、勝義の立場ではナーガールジュナの「空」の哲学に従うという立場であり、このように考えるならば、バーヴァヴィヴェーカによる「空」の論証の性格も理解しやすいのである。
(59)
see Ames W. “Bhāvaviveka's Prajñāpradīpa a Translation of Chapter One", Journal of Indian Philosophy 21,1993,pp.221-222.
(60)
dbu ma'i rtsa ba'i 'grel pa shes rab sgron ma,Tohoku.No D3853,49a,"med pa kho na'i phyir de la ldog pa med pas 'di dang thams cad la nyes pa med do/"
op.cit.“because [dissimilar cases] simply do not exist,there is no absence [of the reason] in that [nonexistent dissimiler case].therefore,here and in all [similer syllogisms], there is no fault [in not giving a dissimiler example]."
(61)
三枝充悳『中論』(上)第三文明社、東京、1984、p.95.参照。なお、上掲Ames論文p.243,note 93.参照。
(62)
see Ruegg d.s. “The Literatuer of The Madhyamaka School of Philosophy in India",A History of Indian Literature vol.7,1981,Wiesbaden,Otto Harrassowitz,p.79.
(63)
例えば、“dBu ma rgyan gyi brjed byang" The collected works of rJe-rin-po-che vol.24,1982,Delhi,Ngawang Gelek Demo,folio ma 2,l.3.
"thal 'gyur du byed na/ gtso bo chos can/ gcig pu'i bdag nyid du bden pa ma yin par thal/"
これを和訳すれば「帰謬論証するならば、自我(ātman)を主題として、(それは)単一なる本質の真実ではないことになる」となるだろう。換言すれば、仮に自我が主題であるとした場合、それは必然的に単一の本質ではないことに帰する、ということである。これはチャンドラキールティの帰謬論証を用いた論証であると思われる。
(64)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(9 認識論と論理学)春秋社、1984、p.184.参照。
(65)
戸崎宏正『仏教認識論の研究』(上)大東出版社、東京、1979、pp.142-144. ここにシンシャパー樹は存在しない。木がないから、というようなものである。その他に、結果が見られない場合がある。
(66)
cf. Eckel M.D. "Jñānagarbha on The Two Truth",New York,State University of New York,1987,p.70.
(67)
cf. Eckel M.D. "Jñānagarbha on the two truth",New york,state university of New York,1987,p.23. pp.33-34.

(2.2)西洋論理学とインド論理学

 前節(2.1.7.2.2.3)でも述べたように、西洋論理学は名辞間の関係にもとづいて推論を進めるという特徴を持っている。一方、インドの論証学の規則においてもっとも重要な要素は認識根拠、すなわちわれわれが日常経験する諸事象を感じる感覚による認識結果を帰納して推論を進めるという点である。従って西洋論理学とインド論理学は本質的に異なった観点によって推論を進めていると言うことになる。従ってこれからの論述を分かり易くするためには、西洋論理学とインド論理学の諸規則を示し、改めてその違いを示しておく必要があるのではないかと考えられるので、以下に両者がどのような規則によって論を進めているかを列挙し、改めてその違いを確認しておくことにしよう。(以下の一覧表にしめす番号は便宜的に付けたもので、対応関係はない)

(2.2.1)論理学『記号論理学』(1)

Def.命題は真理値を持つ表現である。Aは命題である。ゆえにAは真理値を持つ表現である。

(1)同一律:

(A)⊃(A)

もしAならば、そのときAである、は真である。

(2)矛盾律:

(A)∨¬(A)

AまたはAの否定のうちのどちらか一方、は真である。

(3)矛盾律:

¬((A)∧¬(A))

「AかつAの否定」の否定、は真である。

(4)二重否定の法則:

A≡¬¬A

AはAの否定の否定と同値である、は真である。

(5)巾等律:

 a)A∧A≡A

AかつAはAと同値である、は真である。

 b)A∨A≡A

AまたはAはAと同値である。、は真である。

(6)交換律:

 a)A∧B≡B∧A

AかつBはBかつAと同値である、は真である。

 b)A∨B≡B∨A

AまたはBはBまたはAと同値である、は真である。

(7)結合律:

 a)A∧(B∧C)≡(A∧B)∧C

Aかつ「BかつC」は「AかつB」かつCと同値である、は真である。

 b)A∨(B∨C)≡(A∨B)∨C

Aまたは「BまたはC」は「AまたはB」またはCと同値である、は真である。

(8)分配律:

 a)A∧(B∨C)≡(A∧B)∨(A∧C)

Aかつ「BまたはC」は「AかつB」または「AかつC」と同値である、は真である。

 b)A∨(B∧C)≡(A∨B)∧(A∨C)

Aまたは「BかつC」は「AまたはB」かつ「AまたはC」と同値である、は真である。

(9)吸収律:

 a)A∧(A∨B)≡A

Aかつ「AまたはB」はAと同値である、は真である。

 b)A∨(A∧B)≡A

Aまたは「AかつB」はAと同値である、は真である。

(10)ドゥ・モルガンの法則:

 a)¬(A∧B)≡¬A∨¬B

「AかつB」の否定はAの否定またはBの否定と同値である、は真である。

 b)¬(A∨B)≡¬A∧¬B

「AまたはB」の否定はAの否定かつBの否定と同値である、は真である。

(11)対偶律:A⊃B≡¬B⊃¬A

もしAならば、そのときBである、は、もしBの否定ならば、そのときAの否定であると同値である、は真である。

(12)選択的三段論法:(¬A∧(A∨B))⊃B

もし「「AまたはB」かつAの否定」ならば、そのときBである、は真である。

(13)前件肯定式:(A∧(A⊃B))⊃B

もし「Aかつ「もしAならば、そのときBである」」ならば、そのときBである、は真である。

(14)推移律:((A⊃B)∧(B⊃C))⊃(A⊃C)

もし「「もしAならば、そのときBである」かつ「もしBならば、そのときCである」」ならば、そのとき「もしAならば、そのときCである」である、は真である。

(15)移入律・移出律:

 a)(A⊃(B⊃C))⊃((A∧B)⊃C)

もし「もしAならば、そのとき「もしBならば、そのときCである」」ならば、そのとき「もし「AかつB」ならば、そのときCである」である、は真である。

 b)((A∧B)⊃C)⊃(A⊃(B⊃C))

もし「もし「AかつB」ならば、そのときCである」ならば、そのとき「もしAならば、そのとき「もしBならば、そのときCである」」である、は真である。

(16)縮小律:

 a)(A∧B)⊃A

もし「AかつB」ならば、そのときAである、は真である。

 b)(A∧B)⊃B

もし「AかつB」ならば、そのときBである、は真である。

(17)拡大律:

 a)A⊃(A∨B)

もしAならば、そのとき「AまたはB」である、は真である。

 b)B⊃(A∨B)

もしBならば、そのとき「AまたはB」である、は真である。

(18)構成的両刃論法:((A⊃C)∧(B⊃C))⊃((A∨B)⊃C)

もし「「もしAならば、そのときCである」かつ「もしBならば、そのときCである」」ならば、そのとき「もし「AまたはB」ならば、そのときCである」である、は真である。

(19):

 a)A⊃B≡¬(A∧¬B)

もしAならば、そのときBである、は、「AかつBの否定」の否定と同値である、は真である。

 b)A⊃B≡¬A∨B

もしAならば、そのときBである、は、Aの否定またはBのうちのどちらか一方と同値である、は真である。

(20):¬A⊃(A⊃B)

もしAの否定ならば、そのとき「もしAならば、そのときBである」である、は真である。

(21):

 a)A∧1≡A

Aかつトートロジーは、Aと同値である、は真である。

 b)A∧0≡0

Aかつ恒偽式は、恒偽式と同値である、は真である。

 c)A∨1≡1

Aまたはトートロジーは、トートロジーと同値である、は真である。

 d)A∨0≡A

Aまたは恒偽式は、Aと同値である、は真である。

(2.3.2)論証学『論証入門』(Nyāyapraveśa,tshad ma rigs par 'jig pa'i sgo)(2)

Def.命題とは場所(pakṣa)のことである。

(1)直接知覚(pratyakṣa,mngon sum,現量)。個別相を認識すること。

(2)推理(anumāṅa,rjes su dpag,比量)。一般相を認識すること。

(3)論証(sādhana,sgrub pa,能立)。命題を述べること。

(4)論破(dūṣaṅa,ni sun 'byin nyid,能破)。論証手段の欠陥を指摘すること。

(5)命題(pakṣa,phyogs,宗)。属性(dharma)によって限定されることがのぞまれている属性をもつもの(dharmin)。

(6)理由(hetu,gtan tshigs,因)。

(6.1)遍是宗法性(pakṣa-dharmatva,phyogs kyi chos nyid)。命題(場)の属性であること。

(6.2)同品定有性(sapakṣe sattvam,mthun pa'i phyogs nyid la yod bar nges pa)。類似場に存在すること。

(6.3)異品遍無性(vipakṣe asattvam,mi mthun pa'i phyogs la med ba nyid du nges pa)。非類似場に存在しないこと。

(7)実例(喩)(dṛṣṭānta,dpe)。

(7.1)同喩(sādharmya,chos mthun pa)。共通の属性によるもの。

(7.2)異喩(vaidharmya,chos mi mthun pa)。異なる属性によるもの。

(8)誤った命題(場)(pakṣa-ābhāsa)。

(8.1)現量相違(pratyakṣa-viruddha,mngon sum gyis bsal ba)。直接知覚との矛盾。

(8.2)比量相違(anumāna-viruddha,rjes su dpag pas bsal ba)。推論との矛盾。

(8.3)自教相違(āgama-viruddha,yid ches pas bsal ba)。聖典との矛盾。

(8.4)世間相違(loka-viruddha,jig rten pas bsal ba)。世間の認識との矛盾。

(8.5)自語相違(svavacana-viruddha,rang gi tshig gis bsal ba)。自己の言葉との矛盾。

(8.6)能別相違(aprasiddha-viśaṣaṅa,khyad bas bsal ba)。限定者との矛盾。

(8.7)能別不極成(aprasiddha-viśeṣaṅaḥ,khyad bar rab tu grags pa ma yin pa)。限定者(の存在)が周知のものではない

(8.8)所別不極成(aprasiddha-viśeṣyaḥ,khyad par can rab tu grags pa ma yin pa)。被限定者(の存在)が周知のものではない

(8.9)倶不極成(aprasiddha-ubhayaḥ,gnyis ka rab tu grags pa ma yin pa)。その両者が周知のものではない。

(8.10)相符極成(prasiddha-saṃbandhaḥ,thags bas bsal ba)。(被限定者と限定者の関係が)周知のものである。

(9)誤った理由(hetv-ābhāsaḥ,gtan tshigs ltar snang ba,似因)。成立しない理由、不確実な理由、矛盾した理由。

(9.1)成立しない理由(不成因,asiddha,ma grub pa'i dbye ba)。

(9.1.1)両倶不成(ubhaya-asiddha,gnyis ka la ma grub pa)。(主張者と反対論者の)両者にとって成立しない理由。

(9.1.2)随一不成(anyatara-asiddha,gang yang rung ba la ma grub pa)。(主張者と反対論者の)どちらか一方にとって成立しない理由。

(9.1.3)猶豫不成(saṃdigdha-asiddha,the tshom za nas ma grub pa)。(その存在が)疑わしいために成立しない理由。

(9.1.4)所依不成(āśraya-asiddha,gzhi ma grub pa)。(理由の)基体(つまりpakṣa)が(存在するとは認められていないために)成立しない理由。

(9.2)不確実な理由(不定因,anaikāntika,ma nges pa dbye pa)。

(9.2.1)共(sādhāraṅaḥ,thun mong)。(類似場と非類似場の両者に)共通な理由。

(9.2.2)不共(asādhāraṅaḥ,thun mong ma yin pa)。(類似場と非類似場の両者に)共に存在しない理由。

(9.2.3)同品一分転異品遍転(sapakṣa-ekadeśa-vṛttirvipakṣa-vyāpī,mthun phyogs kyi phyogs gcig la yod la mi mthun phyogs la khyab pa)。類似場の一部に存在し、非類似場の全てに存在する理由。

(9.2.4)異品一分転同品遍転(vipakṣa-ekadeśa-vṛttiḥsapakṣa-vyāpī,mi mthun phyogs kyi yul gcig la yod la mthun phyogs la khyab pa)。非類似場の一部に存在し、類似場の全てに存在する理由。

(9.2.5)倶品分転(ubhaya-pakṣa-ekadeśa-vṛtti,gnyis ka'i phyogs gcig gi yul la yod pa)。(類似場と非類似場の)両者の一部に存在する理由。

(9.2.6)相違決定(viruddha-avyabhicārī,'gal ba la mi 'khrul ba)。誤ってはいないが相矛盾する理由。

(9.3)矛盾した理由(相違因,viruddha,'gal ba dbye pa)。

(9.3.1)法自相相違因(dharma-svarūpa-vipatīra-sādhanaḥ,chos kyi rang bzhin phyin ci log tu sgrub par byed pa)。証明すべきもの自体と反対のものを証明する理由。

(9.3.2)法差別相違因(dharmi-viśaya-viparīta-sādhanaḥ,chos kyi khyad par phyin ci log tu bsgrub par byed pa)。証明すべきもののある性質と反対のものを証明する理由。

(9.3.3)有法自相相違因(dharmi-svarūpa-viparīta-sādhanaḥ,chos can gyi rang bzhin phyin ci log tu sgrub pa byed pa)。証明すべき性質の基体自体と反対のものを証明する理由。

(9.3.4)有法差別相違因(dharmi-viśeṣa-viparīta-sādhanaḥ,chos can gyi khyad par phyin ci log tu sgrub par byed pa)。証明すべき性質の基体に存在するある性質と反対の性質を証明する理由。

(10)誤った実例(dṛṣṭānta-ābhāsaḥ,dpe ltar snang pa,似喩)。共通の属性によるもの、異なる属性によるもの。

(10.1)共通の属性によるもの(sādharmyaṅa,似同法喩)。

(10.1.1)能立法不成(sādhana-dharma-asiddhaḥ,sgrub par byed ba'i chos ma grub pa)。証明する手段としての属性が成り立たない実例。

 

(10.1.2)所立法不成(sādhya-dharma-asiddhaḥ,bsgrub par bya ba'i chos ma grub pa)。証明すべき対象の属性が成り立たない実例。

(10.1.3)倶不成(ubhaya-dharma-asiddhaḥ,gnyis ka'i chos ma grub pa)。(先の)両者が成り立たない実例。

(10.1.4)無合(ananvayaḥ,rjes su 'gro ba med pa)。肯定的随伴関係が述べられていない実例。

(10.1.5)倒合(viparīta-anvayaḥ,rjes su 'gro pa phyin ci log pa)。肯定的随伴関係が逆転している実例。

(10.2)非類似性による誤った実例(vaidharmyaṅa dṛṣṭānta-ābhāsaḥ,似異法喩)。

(10.2.1)所立不遣(sādhya-avyāvṛttaḥ,chos mi mthun pa la yang sgrub par byed pa ldog pa med pa)。証明すべき対象の属性が排除されていない実例。

(10.2.2)能立不遣(sādhana-avyāvṛttaḥ,sgrub par byed ba ldog pa med pa)。証明する手段としての属性が排除されていない実例。

(10.2.3)倶不遣(ubhaya-avyāvṛttaḥ,gnyis ka ldog pa med pa)。(先の)両者が排除されていない実例。

(10.2.4)不離(avyatirekaḥ,ldog pa med pa)。否定的随伴関係が述べられていない実例。

(10.2.5)倒離(viparīta-vyatirekaḥ,ldog pa phyin ci log pa)。否定的随伴関係が逆転している実例。

(11)現量(pratyakṣa,mngon sum)。分別を離れた認識。

(12)比量(anumāna,rjes su dpag)。理由に基づく対象の認識。

(13)似現量(pratyakṣa-ābhāsa,mngon sum ltar snang ba)。対象の自相以外を対象とする分別を伴う認識。

(14)似比量(anumāna-ābhāsa,rjes su dpag ltar snang ba)。誤った理由を前提とする認識。

(15)能破(dūṣaṅa,sun 'byin ba)。証明手段の欠陥を指摘すること。

(16)似能破(dūṣaṅa-ābhāsa,sun 'byin ltar snang ba)。証明手段に存在しない欠陥を指摘すること。

 

(例外1)四句分別(catuḥ-koṭi,rnam rtog bshi po,テトラレンマ)(西洋論理学の排中律・矛盾律に対応)。

 1)¬(∃(¬(Mx)∧¬(¬Mx)∧¬(Mx∧¬Mx)∧¬(¬Mx∧¬¬Mx)))

「少なくとも一つのあるものが存在して、そのあるものはxであり、xはMでなく、かつ、xはMでないのでもなく、かつ、「xはMでありかつxはMでない」のではなく、かつ、「xはMでないかつxはMでないのでもない」のではない。」の否定は真である

 2)¬(∃((Mx)∨(¬Mx)∨(Mx∧¬Mx)∨(¬Mx∧¬¬Mx)))

「少なくとも一つのあるものが存在して、そのあるものはxであり、xはMであるか、または、xはMでないか、または、「xはMであり、かつ、xはMでない」か、または、「xはMでない、かつ、xはMでないのでもない」か、のうちのいずれかひとつである。」の否定は真である。

(例外2)帰謬(prasaṇga,thal 'gyur)(数学で使われる背理法に似ている)

ある命題sが真であることを論証しようという場合、まずsと矛盾する命題非sを仮定し、この仮定から偽である結論を演繹するものである。

(2.2.2)インド論証学の特徴

 以上に示した諸規則は、西洋論理学の公式ともいえる命題論理学のトートロジーと、インド論証学の論証手法に付いてのものである。これらは以上に述べたような規則によって推論ないしは論証を進めるのである。しかし両者は本質的に異なった観点から論を進めようとするので、例外を除けば対応関係はないことがわかる。『インド古典論理学の研究』には次のような一節がある。(3)

「このように形式論理学の方の学者が論理というものを名辞の外延間の抱摂関係に於て捉えようとしたのに対し、インドの論理学者は名辞ではなく直接ものについて論理というものを捉えようとした。(4)」

 以上の文からすれば、一般に「インド論理学」と呼ばれているものに「論理学」という名称をそのまま充てるのは適当ではないように思う(5)。さらに北川氏は次のように述べる。

「凡そ述語とそれが属する学問体系とは密接不離の関係にあり、一つの学問体系に属する凡ゆる術語は、それが属する学問体系と密接に結びついて一箇の術語体系を形成しているべきものである。従ってインドの論理学の学問体系が形式論理学の学問体系と全く同じものでない限り、これら両論理学の術語の間に食違いが存するのは当然である。従って吾々は形式論理学の術語を用いてインドの論理学を説明するよりは、寧ろこの食違いを手掛かりとして形式論理学に対立する別個の学問体系としてのインドの論理学をそのありのままの相に於て再現するように努力すべきであろう。(6)」

 この説によれば、インド論理学は西洋論理学とは全く異なった性質のものであることが明らかである。実際に日本語で「推理」あるいは「推論」と翻訳される論理学の術語の原語は、西洋論理学では「syllogism(三段論法による)」であり、一方のインド「論理学」では「anumāna(因の三相による)」である。このようなことから、北川はインド「論理学」の文献を日本語に翻訳するに際して、従来の漢訳経典の術語にルビを振るなどの工夫をされている(7)。それにもかかわらず、北川をはじめとして今日に至るまで、「論理学」の名称がインドのニャーヤの体系に対応する術語として用いられているのはなぜであろうか。このように考えると、インドのニャーヤに対する訳語としてはその性質を考慮に入れるならば、「論理学」よりもむしろ「論証学」という言葉のほうがより適切であるように思われる。しかしながら一方では、ナーガールジュナやシャーンタラクシタの用いた論法により「論理学」に近い(すなわち西洋論理学に近い)ものを見いだそうという努力も続けられている(8)。

 以上のような理由から、以下の論述において筆者はインド「論理学」が基本的には「西洋論理学」とは立場を異にしているという見地に立って論を進めることにしたいとおもう。しかしながら「西洋論理学」のある部分とよく似た論議が現れる場合があることを否定できない(9)ので、この場合には「西洋論理学」の規則をはずれない努力が払われなければならない。

 ところで、インドの論証学はおおよそ宗教的体験と結びついていた。もともとインド文化は宗教抜きには考えられないのである。ゆえにその哲学に於ても常に信仰の問題が関わってこざるを得ないのであった。従ってその哲学が出す結論は自派に有利なものであり、決して普遍的な真理ではない。インドにおける(チベットにおいてもであるが)論争の歴史はまさにこの信仰を確立するための「論証学」を駆使することによって成り立っている。このような論争の歴史を理解することなしには、真のインド文化に対する理解はないと思われる。

(2.2.3)インド論証学における随一不成とそれに対する「自然言語理解」的解釈

 単語(word)はただそれだけで意味を持つことはない。単語は一つの意味を表わすという目的を持ちつつ、他の単語と結びつき節や句を作る。それらの節や句は、さまざまな機能を持っている。これら機能を持つ節や句が真または偽のどちらか一方の意義(D.Bedeutung)を持つ文または命題を形成する(10)。単語はあるものと対応しているはずである。つまりあるものを名付けたいにしえの人々にとっては、言葉通りのものごとが存在していたことであろう(11)。しかしそれは迷信にすぎない(12)。言葉はある見たこともないもの、あるいは日常のものごとの、ある特定の時間・場所・人によって限定された特別の認識をその原点としていると思われる(13)。次の瞬間にその言葉通りのものごとが存在しているわけではない。その認識が空間を伝わってくるそのわずかな時間の間に、名付けられた物体は変化しているに違いない(光には速さがある)。結局、言葉は物理的な世界とは関係がないように思われる。言葉は人間という生き物の中で展開される、一種の精神活動であるように思われる。しかし以上のような説が世間の常識によって否定されることは日を見るより明らかである。なぜなら世界はまさに言葉によって動いており、それを無意義なものとすれば人間は一秒たりとも生存することはできないからである。言葉は先人達がわれわれに与えてくださった恩寵であり、それを正しく使用することは人間が生きて行く上でとても重要なことであるにちがいない。

 大乗仏教でも西洋の「Word」「Phras,Claus」「Sentence」に似たものとして名身・句身・文身という概念を規定し(14)、人間の言語活動に対する研究が行なわれていたことがわかる。このように言語を正しく使用することが、洋の東西を問わず重要な関心事であったことは、人間の行動に果たす言語の重要性を示している。

 文はさまざまな要素の集合体である。しかしながら、世の中にはその要素が欠けている言葉もある。それにはもちろん文法の規則も適用できないし、論理的にも正しい言語活動とは言えない。そのためにこれらの「自然言語」は今日まで一般に研究の対象とはされてこなかった。例えば日本語には「それはちょっと…」などという言葉がある。これは統語理論的に見れば名詞句も動詞句も含んでいない。すなわち非文である。この「…」という部分にいかなる動詞が来るか、あるいはこの「」のなかの文字列が相手に、あるいは自己に、あるいはもっと別のものに対して、何を伝えたいのか、逆に何を伝えたくないのか、あるいはひとりごとなのかは「文」という概念の範囲内でいくら思考を続けてみても、結局は結論が出ない。このような文字列はあるコンテクストの中でこそ「文」になることができ、かつ意味を知ることができるのみである。従って、従来の方法でこのような非文を文として理解するためにはそれを語る、あるいは書く人間自身の状況、まわりの人間関係、その人間のすべての行動を記述しなくては、論理的に正しい理解は不可能であることになる。しかしそれは実際には不可能である。そのためにこれらの言語活動は一般的に「会話」という範ちゅうに収められ、論理学のような研究領域からは二次的なものとして長らく無視されてきたのである。

 しかしながらこのような状況における言語を理解しようという試みが近年アメリカで生じた。それは「語用論(Pragmatics)」とよばれている。この理論は言語活動の信頼を支える仕組みとはいったいなんであろうか、ということを追求することによって以上のような状況を説明しようとする理論である。

 これによれば「語用論」的な問題は「論理学」にも密接に関わっている。この「語用論」について著書を著わしているアメリカの言語学者G.M.Greenはそのなかで哲学者H.P.Griceの論文を引用して次のように論じている。

 1967年に哲学者H.P.Griceは、論理学者が指摘する∧∨〜⊃などの論理演算子とその自然言語において対応するもの(つまり、and,or,some,not,if…then)との間の違いを意味上の違いと考える必要はないと論じた。Griceは、その違いは使用上の違いであり、自然言語の表現が、対応する演算子の形式論理学的な証明での使用とは無関係の原理に支配されている普通の種類の談話(Griceの用語は「会話(conversation)」)で用いられるという事実に起因するものであると提案した。Griceは、自然言語の単語と形式論理学での対応物との間の差異は、ものを(直接的に)言うことと、そんなに言葉をたくさん使わないでものを伝えることを区別しているものと同種のものであると主張した。

 簡潔に言うと、Griceは、これら全ては、人間が会話をするときに(実は、理性的に行動しているときにGrice1975,p.47)「協調の原則」と呼ばれる行動上の原則に従っているという仮定から引き出すことができると提案したのである。(15)

 要するに、論理学の言うことと、われわれの日常会話の「意味」に違いはない、ということであり、それは会話が成立するとき「協調の原則」なる理性的行動上の規則に従っているということである。ところで「協調の原則」はある特定の公理を持っている。仮にそれが破られたように見えるならば、言外の意味が伝わることになる。以下にその公理を列挙しておこう(16)。

 

量の公理 1.自分の貢献に(会話の現在の目的に)必要なだけの情報量を含めよ。
(QUANTITY: 1.Make your contribution as informative as is required(for the current purposes of the exchange).)

2.自分の貢献に必要とされている以上の情報を含めるな。
(2.Do not make your contribution more informative than is required.)

質の公理 自分の貢献を真実に基づいたものにせよ。
(QUALITY: Try to make your contribution one that is true.)

1.偽であると信ずることを言うな。
(1.Do not say what you believe to be false.)

2.十分な裏づけのないことを述べるな。
(2.Do not say that for which you lack adequate evidence.)

関連性の公理 関連性を持たせよ。
(RELATION: Be relevant.)

様態の公理 明瞭に話せ。
(MANNER: Be perspicuous.)

1.不明瞭な表現を避けよ。
(1 .Avoid obscurity of expression.)

2 .曖昧性を避けよ。
(2 .Avoid ambiguity.)

3 .簡潔に話せ。(不必要に冗長にならないように)
(3 .Be brief(avoid unnecessary prolixity).)

4 .順序正しく話せ。
(4 .Be orderly)

 

この中でグライスが最も重視しているのは「質の公理」である。なぜなら他の規則はそれが守られなくても道徳上の違反つまり嘘をついていることにはならないからである。

 ところで、このような公理に基づいて論じられる「語用論」が、仮に普遍性を持つ理論であるとしたら、西洋論理学とはまったく異なった論理体系を持つインド論証学の理解のためになんらかの手がかりを提供してくれないであろうか。

 インドの論書は哲学書であり、非会話的な言葉づかいで書かれているのは事実である。それはインド独自の論証学の規則に基づき、非常に難解であり、通常の言語活動からは遠く隔たったものである。しかし一方で、ある場合にはそれがあたかもプラトン著『クリトン』のような会話調で書かれていることも否めない(17)。それら論書の中には幾人もの論師達が現れて著者と一対一の対論を繰り広げる。内容は哲学的であるにも関わらず対論者の発した疑問に分かり易く答えている。対論者が論破されればまた別の論師が出てきて別の難問を突き付ける。実に生き生きとしたその対論の情景が目に浮かぶようにさえ思われる。これが会話でなくてなんであろうか。もしこのように考えるならば、インドの論書は上に挙げた「語用論」の公理を守っているはずであり、それが会話である以上、この公理とよく似た論争上の規則がインド論証学的手法の中にも何かあるはずである。

 まず、インドの論争の規則において、最大の問題となるのは宗教的立場の相違である。なぜなら、一方は諸存在の根本に梵(brahman)あるいは我(ātman)の実在を主張するのに対して、他方はそれらの実在をまったく認めていないのである(18)。

 ところで上に梗概を示した『論証入門』(Nyāyapraveśa)の著者シャンカラスヴァーミン(Śaṇkarasvāmin)はバラモン哲学の一派であるニャーヤ学派の学徒であったとされている。一般にこの『論証入門』という著作は、大乗仏教の論師ディグナーガの論証学の入門書として仏教においても広く用いられ、当時のインド論証学一般で用いられていた手法を知るためには格好の資料である(19)。

 この中に、論争において宗教的立場の問題を処理するために考え出されたとおもわれる「随一不成」という規則がある(上表(9.2.1))。これは対論者がお互いに相手には認められない自分の立場を主張したときに用いた理由概念は、命題の論証には効力を発揮できないという規則である。例えばバラモン教徒側の主張が「音声は恒常な存在である」である場合、理由として、「音声」が「恒常な存在」(ātman)の属性(dharma)であることを示すならば、それが随一不成という論争上の過失になる。逆に大乗仏教側の主張が「音声は無常である」である場合、その理由として、「音声」が「無常」の属性であることを示すならば、それも同様の過失を犯したことになるのである。

 では、この「随一不成」の規則は、上に述べた「語用論」の示すどの公理に当てはまると考えられるだろうか。まず論争の中で、お互いに「質の公理」を守っていることは確かである。お互いに自分の貢献を「真実に基づいた」ものにしようとしている。しかしここで問題となっているのは、その基づかせるべき「真実」の相違である。上の公理においては、対論者の双方が同一の公理を守ることを前提にしている。そうでなければ、受信者は、話者が全ての面で協調している(つまり、すべての公理を遵守している)と誤解する可能性がある(20)。実際に大乗仏教の対論者であったヴェーダンタ学派の巨匠シャンカラは大乗仏教徒を「自性の無を説く虚無主義者」として理解している(21)。この場合シャンカラにとっての真実とは、全てが独自の本質を持つものであるということであるから、大乗仏教のようにその本質を否定するということは、必然的に虚無論にならざるを得ないのである。要するに「関連性」の公理がないために、両者の間においては基本的に会話が成立しないはずなのである。従ってこの場合、大乗仏教がバラモン哲学との会話を成立させるためには、どうしてもある程度の妥協が必要であることになる。

 以上のようなことから、この「随一不成」という規則は、語用論の「関連性の公理」が成り立たないことを指摘するための規則であるということができるであろう。

 従って、これを解決するために、後に大乗仏教はバラモン哲学が主張する独自の本質に似た概念である「アーラヤ識」を考え出したのであると思われる。しかしこれでは「関連性」は持たせたものの、大乗仏教徒は「偽であると信ずること」をまさに言っていることになってしまう。大乗仏教徒はある意味で否定する対象そのものを肯定していることになってしまうのである(22)。これは明らかに自家撞着である。

 実際にこれは後期の大乗仏教では大問題となり、さまざまの論争が起こったと思われる。ところで、大乗仏教の一派である中観派が使った帰謬法(prasaṇga)による自性が存在しないことの証明は、メジャーな勢力であったバラモン教徒側からは間違った論難であると、伝統的に決められていた。大乗仏教の論証学ももとをたどればバラモン哲学の一派であるニャーヤ学派の論証式の改良から生まれたものであるから、基本的にはそれが定める諸規則に違反することはできない。しかし中観派はこれらのインド論証学が定める諸規則を、中には例外的なものもあるが、ほとんど無視し、独自の論法を存続・発展させたと考えられる。その結果バラモン哲学を納得させられないまま、少数派として存続していくことになったとおもわれる。

 一方、同じく大乗仏教の一派である唯識派ではこのような状況に満足せず、積極的に協調していこうとした。その結果生み出されたのがそれまでの大乗仏教にはない「仏教論証学」であり、唯識説であったのではないだろうか。唯識派によるこの目論見はある程度の成功をおさめ、ディクナーガなどのインド論証学の改革者を輩出することになった、と思われるのである。

 ところで、上記の「協調の原則」においては、仮に対立が生じた場合にはどちらか一方の公理が尊重されることになっている(23)。そうでなければ会話は成立しないからである。しかしながらグリーンによれば、「含意」によって会話を進めることはできるのである。大乗仏教が全ての命題に「すべての物事には自性がないこと」を含意させることを忘れなかったことは、唯識派の論書を注意深く検討するならば明らかになるだろう。インド社会のマイノリティーであった当時の大乗仏教徒が社会的に存続していくためには、この方法以外には道はなかったのであろう。しかし、それも長続きせず、結局インドにおける大乗仏教は滅びてしまうことになったのである。

 それゆえ大乗仏教がインドで滅び去った原因のひとつに、結局は「協調できなかった」という項目を加えることができるように思われる。唯識派の努力も結局は相手を納得させることはできなかった。しかも中観派、とりわけそのなかでも帰謬論証派はバラモン哲学との「協調の原則」を守ろうとはしなかった。これはなぜであろうか。

 筆者の考えによれば、それはインド大乗仏教がナーガールジュナの「二諦説」を理論的に発展させた結果、知らず知らずのうちに聖なる世界と俗なる世界とがまったく関係を持たない、とする相対主義的な立場に陥っていたことに起因するように思われる。従ってその結果、大乗仏教における「聖」の世界は次第に周囲の状況を無視した独善的・孤立的な状況に直面せざるをえないようになっていったのではないだろうか。それはナーガールジュナの説いた「二諦説」の真意を理解する者が少なかったことに関係があるようにも思われる。次節で述べるシャーンタラクシタの「二諦説」に関する議論もナーガールジュナの「二諦説」に対する解釈のうちの一つであるが、この博学の学僧による解釈を考察することによって、「二諦説」が後期インド仏教においてどのように理解されていたかを知ることは、この節で述べたような問題を考える上でも、意味のあることであると思われる。





(1)
清水義夫『記号論理学』東京大学出版会、1984、pp.13-15.参照。
(2)
泰本融『空思想と論理』山喜房、東京、1987、pp.115-130.参照。
(3)
北川秀則『インド古典論理学の研究』鈴木学術財団、東京、1965、pp.3-67.参照。
(4)
前掲書p.6-7.参照。
(5)
「論理学」は一般に“Logic"の和訳であると考えられているが(小松摂郎『哲学小辞典』法律文化社、京都、1970、p.280参照)その場合、“Logic"は西洋の論理学を指す。従って、インドの“Nyāya"もそれに含まれるとはいえない。
(6)
『インド古典論理学の研究』p.3.参照。
(7)
前掲書p.5.注5を参照。
(8)
立川武蔵『中論の思想』法蔵館、京都、1993、はしがき参照。
(9)
例えば、本分中に示した「帰謬法」や「四句否定」に用いられる論理は、排中律や矛盾律を前提にしなければ、成り立たない。
(10)
L.ヴィトゲンシュタイン著、藤本隆志ほか訳『論理哲学論考』法政大学出版局、東京、1968、p.77-78注(1)参照。
(11)
ルソー著、本田喜代治ほか訳『人間不平等起原論』岩波書店、1972、p.63参照。
(12)
cf. Putnam H. “Reason, Truth and History",London,Cambridge UP.,1983,p.3.“mental representations no more have a necessary connection with what they represent than physical representations do. The contrary supposition is a survival of magical thinking."
(13)
ルソー前掲書p.58以下参照。
(14)
長尾雅人『摂大乗論』(下)講談社、東京、1987、p.337参照。
(15)
see Green G.M. “Pragmatics and Natural Language Understanding",New Jersey,Lawrence Erlbaum Associates,1989,pp.88.
(16)
op. cit. p.89.
(17)
プラトン著、久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波書店、1964、pp.63-88.及び参照。Levi C.ed. “Vijñaptimātratāsiddhi",Paris,1925,p.8.“kiṃ punasteṣāṃ lakṣaṇaṃ cakśurādiviṣayatvaṃ nīlāditvaṃ/ tadevedaṃ saṃpradhāryate/ yattaccakSurādīnāṃ viṣayo nīlapītādikamiṣyate kiṃ dravyamatha vā tadanekamiti/ kiṃ cātaḥ/".
これは梶山博士によって以下のように訳されている(長尾雅人編『世界の名著』(2大乗仏典)中央公論社、東京、1967、p.439.)。「(答論)それではこれらの性質は何なのか。(反論)「(色形の性質は)視覚の対象であること、および青などの色であることである」(答論)それこそが目下の研究の主題である。すなわち、視覚の対象であり、青とか黄とかの色であると考えられているその(色形)が、単一の実体であるのか、あるいは複数のものであるのか、ということが。(反論)「それでどうなるというのか」」。これはこれを会話的であると解釈することによって、より意味がはっきりするものの一例である。
(18)
前田専学『ウパデーシャ・サーハスリー』岩波書店、1988、p.127.参照。「「私は有である」という観念は、[天啓聖典という]正しい知識根拠から生ずるが、他[の観念]は、方角に関する誤謬などのように、否認される。」要するに、シャンカラにとっては、ブラフマンが実在するという観念以外の観念は、でたらめだ、ということである。
(19)
武邑尚邦『仏教論理学の研究』百華苑、京都、1968、p.341参照。
(20)
cf. Green G.M. ibid.p.89-90.
(21)
『ウパデーシャ・サーハスリー』p.235.参照。「アートマンは結合したものではないとしても、身体にすぎないと[見なされ]、身体に付託されてしまうので、[アートマンは]実在せす、無常であると言う論理的欠陥が起こります。その場合には[先生の御意見が]身体はアートマンをもたない、とする虚無論者(=仏教徒)の主張に帰着するという論理的欠陥が生ずるでしょう。」これはシャンカラの弟子がシャンカラに質問したものであるが、この中では少なくとも仏教の主張である全てのものごとの無常と無我(=アートマンをもたないこと)が論理的欠陥であると考えられている。
(22)
大田久紀編『選註・成唯識論』中山書房、東京、1977、p.16参照。ここでは大体以下のように述べられている。物質的存在が実在すると執着するもののために、仏は原子の実在を説いて、それによって、原子の実在を否定させるのである。従って、実際に物資的存在が原子によって出来ているというのではないのだ。ヨーガ行者たちは、仮に考えて物質的存在の特徴において、順番に否定・分析を進め、それが分析できないところまで至ったものを仮に原子であるというのである。この原子は部分があるにもかかわらず、それ以上分析することは不可能である。もしそれ以上分析するならば、それは存在しないに等しいであろう。これでは物質であると名付けようがない。ゆえに、原子は物質的存在の極端である、というのである。
(23)
Green G.M.ibid.p.89.


(2.3)カマラシーラ著『中観荘厳論難語釈』による『中観荘厳論』における「二諦」の解明

 『中観派の歴史』の節で見てきたように、ナーガールジュナによって説かれた二諦説は、さまざまな解釈を受けた。そしてその意味も註釈者によって異なっていた。『中観荘厳論』もこの二諦説に対して特徴のある解釈を示している。山口瑞鳳氏はこの著作を「中観二派(バーヴァヴィヴェーカとチャンドラキールティによる中観思想の理解)の誤りをも正して、ナーガールジュナの哲学に対する最終的な解釈を打ち出した」と評される(1)が、それは『中観荘厳論』における二諦説の特徴ある解釈方法を評する言葉としておおすじ適当であると思われる。

 『中観荘厳論』においてこの二諦説を直接扱った個所は第六十三偈から第七十二偈までである。これにはシャーンタラクシタ自身による『自註』と弟子のカマラシーラによる 『中観荘厳論難語釈』が存在する。この『難語釈』について、一部のチベット人学僧によってその真作が否定されている。これに対して小林守氏はそれがチベット人学僧による誤解であることを指摘されている(2)。そしてそれをふまえた上で『中観荘厳論』の書式について論じられているが、いまは詳しく立ち入らない。

 この文献に関して、一郷正道氏による『中観荘厳論の研究』がすでに出版されていることはすでに述べた。これはインドの諸文献を参照し、サンスクリット原典に見られるパラレルパッセージをも示したクリティカルエディションと、それまでの研究論文、そして 『中観荘厳論』の『偈』と『自註』すなわち『中観荘厳論』の全和訳を含んだ労作である。それゆえこの論文はこの一郷エディションを原典として論じる。しかし、このエディションが持つ問題点もある。すなわち、このエディションがチベット人学僧による注釈をまったく参照しないでなされたこと、そして一緒に発表された本文の和訳の訳文に誤りが多いことを、いまから十年ほど前に松本史郎氏が指摘しておられる(3)。しかしながら以前にも少し触れたように、チベット人註釈者の間に見解の相違があって、どの註釈書を参照にするかで解釈が違ってくることも事実である。それらの註釈書の解釈の問題に付いては後に触れることとして、以後は基本的にインド人の弟子カマラシーラによる『中観荘厳論難語釈』の一郷校訂本に基づいて、『偈』を解釈するという方法で論じてゆきたいと思う。

 しかし二諦説について論じられたこの部分のみを解釈するだけでは、『中観荘厳論』全体の論の流れを見失うおそれがあるので、この部分以前に『中観荘厳論』においてどのような議論がなされているのかを簡単に見ておく必要がある。

まず、『中観荘厳論』の冒頭第一偈で、この論の骨子となる論理が示される。

K.1

自派・他派が説くこれらの物事(dngos po)は、勝義においては自性がない。/

一と多[のうちのどちらか一方の]自性を欠くからである。[例えば]影像の如し。/

これはダルマキールティの論証学における能遍の非認識による否定的推理(vyāpakānupalabdhi)を用いた空性論証である。換言すれば、ある場所において認識されるための条件が揃えば認識できるもの(証因a)が、現に認識されていないことは、Aがその場所に存在しないことを導出するための論拠となる、という規則を用いた全てのものごとに「自性がないという性質」(niḥsvabhāvatā,無自性性)の論証である(4)。仏教論証学の三支作法に適用してみると、

(主題)この場所にAは存在しない。

(理由)証因aが存在していないから。

(比喩)例えば影像のごとし。

 またこの証因は自性の不認得(svabhāvānupalabdhi)とも言われる(5)。

 しかしここで、もしそれらの物事の「自性」を主張する対論者によって、一・多の自性の他に一でも多でもない「自性」が勝手に考え出されるならば、「もし自性があるなら、一か非一以外にはない」という排中律を適用する。そうすれば第三者の介在(1でも多でもない、または、1かつ多である証因a)を否定することができるからである。このように第三者の存在が否定されるならば、仏教が主張する集合体的存在(skandha)やサーンキャ学派の主張する根本原因(pradāna)などは一であるか非一であるかが特定できないので、本性が理解されず、認識されないことになる。

 ところでシャーンタラクシタはこの場合の「非認識」という証因(liṇga,特徴)を 「自性がないこと」という意味で理解しているようであるが、インド最後期の仏教論理学者モークシャーカラグプタ(mokṣākaragupta)によれば、この証因は本性が理解されないものに対して、存在しないことを示す行為という積極的な否定はできないことになっている(6)。従ってこの証因は「現在」それも「目の前にあるもの」に対してのみ、有効である。この場合、存在するものは存在すると見られるので、シャーンタラクシタにとっては多少不都合である。しかしながら「自性そのもの」が目の前に存在する、とは言えない。実際に「自性」なるものは、目に見えない。したがってこれ以外に物事の非存在を示す証拠は見当たらない。また「1の自性であり、かつ、多の自性である」どんなものがあるだろうか。

 排中律をもちいた論証は、中観哲学の創始者ナーガールジュナが『中論』においてすでに用いているが、ここに見られるものはそれらの論証の意味を忠実に受け継ぎ、しかもそれをインド論証学の規則に則って論じることに成功したものであると言えるだろう。前述のようにシャーンタラクシタの先達にあたるバーヴァヴィヴェーカは、時代的にこの非認得証因を知らなかったので、インド論証学の論証式に取り入れることができなかった。

 チベットの史書によればこのようなインド論証学上の離一多証因はシャーンタラクシタの先達シュリーグプタが初めて用いたことになっているが、現在伝えられるシュリーグプタの著作『入真実論』(Tattvavatāra)のコロフォンには、この『入真実論』がなんらかの著作のレジュメ的なものとして著わされたものであるという記述が見られ、その著作がこの『中観荘厳論』である可能性が高い。小林守氏によれば『入真実論』が良好な訳本とは言えず、しかも分量も『中観荘厳論』よりかなり少ないことから、『入真実論』が『中観荘厳論』のレジュメである可能性を指摘しておられる(7)。

 しかし、この離一多証因はインド論証学一般の立場からみれば証因を欠いていることになってしまう。なぜなら、インド論証学の基本的な立場に基づくならば、存在しないことそのものを直接的に示すことはできないからである。インド論証学の規則によればこの場合、この証因を用いることで所依不成(āśraya-asiddha)の過失をおかすことになってしまう(8)。そのうえ、この証因を用いることによって主題の属性であることが立論者と対論者のいずれか一方において承認されていないことになるから、随一不成(9)の過失をもおかしていることになる。それゆえ、対論者によって提出される第一偈以降の反論は、主としてこれらの点に集中することになるのである。

『中観荘厳論』の構成からみれば、この第一偈の主張は第六十二偈までの議論の論拠を説明する内容となっている。この偈が主張するのは、簡単に言えば仏教やその他の学説はすべて、単独で成立する実体、すなわち「1なる真実」を説いているから、それを離れた勝義においては、影像のごとく姿はあるけれども実体は存在しない、ということである。さらにそのような「1」が多く集まった「多」も当然実体が存在しないことになる。このゆえに、それらの学説において説かれるようには、すべての物事(bhāva,dngos po)がそれだけで成立する「自性」を持っていることはなく、したがってそれらはすべて「存在しない」ことになる。そこでこの偈以降はシャーンタラクシタから見て他学派、すなわちバラモン哲学と自学派、すなわち仏教哲学の諸学説がこの一・多の自性による齟齬をきたしていることを指摘していくことになる。

 この『偈』に対する『自註』による解釈は、以下のようになっている。

 「なんらかの自性が存在するならば、一かあるいはもう一方を超えないのである。これらはお互いに排除しあって存在する特徴であるから、これら以外の存在物の集合(skandha,phung po)を排除するのである(10)。」

また、カマラシーラによる『難語釈』では、以下のように注釈されている。

「真実において自性が存在しないことは、例えば[鏡に写るものの]影像[は姿だけはあるが、本質がない]ようなものである。さらに、我々が語る[哲学的な]言説も、一と多の自性ではないから、遍充関係(vyapyavyāpaka-saṃbhandha)が成立しないのである。なぜなら、われわれは仮に自性があるとすれば、それが一であるか、多であるかのうちのどちらか一方である場合に[インド論証学的]遍充関係を認めることができるからである。「一」とは無部分性のことであり、「多」とは区別される性質であるという意味である(11)。」

 すでに見たようにこの部分は、ダルマキールティの創案した非認得証因を用いて、全ての物事が自性を持たないということを論証する。シャーンタラクシタが前提にしていたのは、ダルマキールティの以下のような論証式である。

「ものはなんらかの本性のものとして見られるが、その本性が真実に存在することはない。なぜならば、それらには、本性が一者としても多者としても存在していないから。」(12)

これらはものごとに自性が存在するのだ、という対論者の主張を、「対立概念である1と多の中間概念を排除する」という排中律を用いて論難するものである。

『中観荘厳論』第一偈では、この論全般において中心となる重要な論証が述べられている。これによってシャーンタラクシタはインド論証学の形式で、物事の空性を論証することに成功したのである。いわば、インド論証学の中に、まったく性質の違う排中律を導入することに成功したのである。
これはバーヴァヴィヴェーカの成しえなかった仕事であるといえるだろう。バーヴァヴィヴェーカの時代には、ダルマキールティはまだ在世しなかったので、この論証を成功させたのは、ダルマキールティの論証学の力によるのである。

これについては、すでに先学による多くの研究が存在するが、ひとまず区切りをつけて、次に『中観荘厳論』が二諦説を述べている個所の考察に入ることとしよう。

(2.3.1)「諦」の定義

K.63

このゆえにこれらの存在物は、世俗のみを特徴とする、と理解される。/

もし、これらの対象を承認するならばそのとき、これに対して、私によって何がなされようか。/

 この偈は『難語釈』によれば、次のような対論者からの疑問に対する答えとして説かれたものとされている。すなわち、いかなる物事も存在しない勝義において、世俗において成立している物事が存在しないならば、その勝義は何の特徴もないことになり、認識されないことになってしまう。つまり、勝義などはそもそも存在しないのではないだろうか。

 バラモン哲学においては、世界はブラフマンという絶対的な存在者が形を変えたものであるから、仏教の主張するような世俗が聖なる世界を表現していることになる。従って、バラモン哲学的な視点から見れば、仏教の説く勝義なる概念は「固定不変の実体としての存在」という特徴を持っていないから、存在しない、と言うことになるのである。おそらくこの部分は聖と俗について、異なった視点である実在論からその思想を展開させるヴェーダーンタ学派の反論を想定しているのであろう(13)。しかし、仏教においては、先にも述べたような「不認得証因」による存在しないものの証明が可能であり、またナーガールジュナ以来用いられてきた帰謬論証(Prasaṅga)を用いることもできる。それゆえ『難語釈』は以下のように論じている。

「 [論理的・存在論的な]真と偽は、すべての物質的存在(phung po,skandha,蘊)を遍充している。この両者[=真と偽]は、お互いに排除して存在する特徴があるからである。[論理的・存在論的]真の本質を否定するならば、必然的にこれらのもう一方において存在する自性[=つまり偽]に自ずからなる、と言わざるを得ない(14)。」

 従って、対象の特徴を承認するならば、それらの対象は真か偽かのどちらか一方であるはずである。なぜなら世俗の特徴はそれらのうちのどちらか一方に必ず当てはまるからである。つまり、世俗における物事のなんらかの本質は、存在するか、存在しないかのうちのどちらか一方であるしかないのである。一方、仏教の言う勝義の世界は、真偽あるいは存在と非存在という特徴では理解することができない。一方のバラモン哲学側は勝義を存在・非存在の論理で解釈している。なぜならバラモン哲学の言う「アートマン」は絶対的な存在者であるから。したがってアートマンのような「絶対的に存在するもの」は、世俗を特徴とするものであることになる。

 『自注』によれば、物事に自性を認めるあり方は、「鉄のカギが無い」と表現される。厳密に検討せずに、本当は存在しない自我意識によって、現象の中に不変化の自性を認める、楽天的なものの見方であり、普通世俗一般の人々はそのように考えている。『難語釈』によれば「「鉄のカギが無い」とは自ら喜んで、それがときどきこれらの誤った本質においても成立するであろう、と考えることである。」と説明されている。 (15)。

 以上のような議論で明らかなように、『中観荘厳論』の説く勝義自体はまったく特徴を持たないこと、そして言葉ではそのものを表現できない。それを論証するために使われる排中律は厳密な性格を持っており、現代の直観主義的論理学のような「真かつ偽」という「論理的不確定項」を排除している。だからこそ、世俗とはなんらかの作用を持つ世界であり、その文字表現を離れている世界が勝義である、と理解できるのである。ただし後でも説かれるように、文字通りまったく作用を離れて停止している世界では決してなく、言うなれば、「絶える事のない因果関係において縁起している、無自性なる世界」である。このような表現自体も世俗に他ならないが、勝義の世界を文字で仮に表しているものであるから、これを説くことには意味があるのである。

 シャーンタラクシタ師弟がこのような厳密さによって、勝義と世俗の世界を分けたことは、ナーガールジュナが『中論』で説く「二諦説」を解釈する上で厳密な思考が必要であることを示している。勝義そのものがまったく言語表現できないことを「知るため」には、この思考方法が重要である。世俗は世俗としてそのまま成立し、一方勝義「自体」の世界は、それを直接表現するどのような言語表現も、特徴も存在しないから、二つの諦が成立する。ただ、そのような論理的思考表現自体は、勝義を文字や概念で仮に表すための仮設であり、勝義の世界に至るための手段としてあるという範囲内で認められる。しかしながらそれが言語表現に含まれる以上、世俗(=相待と仮設)であることは言うまでもない。これは『中論』において、両極端を否定する「中道」であるとされるものである。

 それでは、そのような厳密な思考はどのような観点に基づいてなされるべきであるのか。そしてそれによってシャーンタラクシタが勝義と区別する世俗とは、具体的にはどのようなものを示しているのであろうか。それは以下の偈で示される。

(2.3.2)正しい世俗と正しくない世俗

K.64

[厳密な論理によって]厳密に検討されない限り好ましく認められていて、生起と消滅の基体(dharmin)[であり、]/

[そして]効果的作用の諸能力の自性[があるもの]が世俗であると考えられる。

 前の偈において、世俗が厳密に検討すれば自性を持たないものであることを述べたシャーンタラクシタは、次にその世俗を定義する。この『偈』に対するシャーンタラクシタ自身による『自註』においては、まず対論者によって「なぜ世俗に自性が存在しないのか。もし存在しないならば、われわれの経験、そしてわれわれの承認する対象が顕現することと、矛盾するではないか。」という疑問が提示されたことに対して、この 『偈』が述べられることになっている。

 さて、『難語釈』において、カマラシーラはこの疑問がおそらく自立論証派と帰謬論証派の間の見解の相違を知らないものによって、中観派一般に対して発せられたものと考えて、以下のように議論を展開する。帰謬論証派の説によれば、世俗においては勝義の自性、すなわちあらゆるものごとが自性を持っていないという性質が否定されているために、その結果として本当は自性をもたない世俗が、あたかも自性を持つかのように存在している。そのあり方は以下の二つに分けて説明しうる。(1)まず、世俗を言語活動(śabdavyavahāra)を本質とするものであるとする。(2)つぎに、認識対象を認識するときの、ごく一般的な言葉とその対象との取り決め(saṃketa)が世俗であるとする。これら二つはあたかも本質を持つかのように現れた誤った認識であると帰謬論証派は考える。簡単に言えばそれらは何の働きもない、ただの幻覚のようなものである。もしシャーンタラクシタが世俗に自性が認められない、と主張しているとするならば、このような特徴を持つ帰謬論証派の説く世俗の定義、すなわち世俗が全くの虚偽である、という主張を承認していることと同じになるではないか、というバラモン哲学側からの反論である。

 それにたいしてシャーンタラクシタは次のように反論する。もし(1)のように言語活動が世俗であるとするならば、言語活動は仏教論証学の立場からみれば一般性(共相)のみを対象とし、個別性(自相)を対象としないと決められている。さらに、厳密に検討すれば、原因と結果を歴時的に持って縁起しているとされる現象世界は一般性、あるいは概念によって捉えることができないことになっている。それは直接知覚(現量)の対象である。もし帰謬論証派のように世俗が言語活動そのものであるとするならば、言語活動以外の現象世界を無視することになる。したがって世俗が唯識説の主張するようなまったく想像された本質、つまり幻覚のようなものとなるだろう。これが世俗の本質であることを承認するならば、一般に認められている物事の効果的作用、例えば水が喉の渇きをいやすような作用を否定することになってしまうだろう。なぜなら概念そのものは何の効果的作用能力も持たないからである。たとえばご飯のことを考えただけでは満腹感は得られない。実際にご飯を食べなければ、決して満腹感が得られることはないのである。ゆえに帰謬論証派が説くような世俗の定義は正しくなく、シャーンタラクシタがそのような世俗の定義をしているとする対論者の反論は誤解である。

 つぎに(2)のように、世間で使われる一般的な「言葉と対象との間の取り決め」を、インド論証学で決められた認識根拠(pramāṇa)を用いて考察する場合、仏教の立場からすれば縁起(pratītyasamutpanna)しており、従って自性を持っているはずのない現象世界において、自性を持った「言葉と対象との間の取り決め」を前提とするために、現象世界が何らかの自性を持っていることになってしまうので、この点に関して仏教の勝義的立場から見れば、それらの使用は矛盾を抱えていることになる。したがって「言葉と対象との間の取り決め」そのものを世俗と名付けることに関しては問題があることになろう。なぜなら、自性を持つことと、自性を持たないことは、対立概念であり、それは同時に存在しないのであるから。いったい、自性を持たない現象の中で、自性を持った「言葉と対象の取り決め」が成立するのだろうか。

帰謬論証派が否定する、インド論証学一般に用いられる認識根拠による論証では、その矛盾を説明できない。なぜならそれはものごとの存在・非存在・存在しかつ存在しないことを、「言葉と対象との間の取り決め」の存在を前提にした上で論じるという性質のものであるからである。従ってこれを世俗と見なすのかどうかという主題に対して、インド論証学的手法を用いて論証しようとすること自体が、不変化な「言葉と対象の取り決め」という自性を持つ言語活動の承認を前提とすることにもなるから、不可能なはずである。ゆえに帰謬論証派はインド論証学を認めておらず、それを用いて積極的に論証することはしない。帰謬論証派の立場からすれば、世俗においてはその言葉の取り決めが不変化に存在するとみられているので、実際的な場面で使用される言葉は存在しない、ということになってしまう。

これに対し、シャーンタラクシタが述べる「世俗」とは、そのような「不変化の対象と言葉の間の取り決め」ではなく、現象世界に仮に「結びつけられた」言葉や概念である。それは「他概念の排除(apoha)」によって認識された概念であり、普通に経験される「現象世界」一般を対象とするものであった。仮に結びついたものであるから、そこには不変化の関係はありえない。言葉と対象とは恣意的に結びついているにすぎないのであるから、したがってそれらは勝義の立場からすれば虚妄であり、単一性と多数性の中間概念が存在しないという方法で厳密に検討するならば、そこに不変化の自性は存在しない。しかしそれを使用することは、厳密に検討しない限り可能なのである。なぜならそれらを「仮設」として、真理に導くための方便と見るからである。帰謬論証派の考えるように世俗を定義するならば、このような「仮設」は認められないことになり、『中論』の教説と対立することになってしまうのではないだろうか。

ゆえにシャーンタラクシタは、言葉や概念を排除した「縁起する現象そのもの」と、それに基づく正しい言語活動を「正しい世俗」、そうでない言葉や概念を「正しくない世俗」であると考えていた。

このように中観哲学には世俗における言語活動を仮に「働き」があるものとして認める立場と、認めない立場の二者があった。前者が先にも述べたバーヴァヴィヴェーカなどがとった自立論証派(svātantrika)の立場であり、後者がチャンドラキールティなどがとった帰謬論証派(prāsaṅgika)の立場である。自立論証派は正しい世俗における物事の自性の「仮設」を認めるが、勝義においては完全に否定する。一方、帰謬論証派は勝義以外の性質をまったく認めない。つまり、全ての世界が空性であるということ以外には本質を認めないのである。この立場によれば当然、言葉や物事の作用も、虚妄なものであるから、いかなる場合にも認められないことになる。したがってもしこのような立場に基づいて現象世界を観察するならば、必然的に全ての現象を虚妄なものであるとして否定することになり、現象世界に対して積極的に働きかけることが自体が不可能になってしまう。山口瑞鳳氏もいわれるように、帰謬論証派は世俗を言語活動そのものであるとする偏見から、それらの概念の間の関係が、縁起する現象世界そのものにも対応するものであると見なしていたようである(16)。言語活動そのものが否定されてしまうならば、いかにして仏教は他者を教化することができるだろうか。しかしながら、これは『中論』の説く「二諦説」にたいして、そのような、一面的な解釈も可能であることを示しているのである。以上に見てきたことからもわかるように、帰謬論証派は現象世界に仮に自性を認める自立論証派による世俗と勝義の区別とは、根本的に異なる立場をとっていたのである。

 それでは、自立論証派の立場をとる『中観荘厳論』は、世俗を具体的にはどのようなものと考えていたのであろうか。それは『自註』によれば、経験され[一般的に]承認されているものであり、縁起生のものであり、離一多論証による厳密な考察には耐えられないものであるという。 

『難語釈』によれば、世俗において「見ること」は、眼の認識(akṣayajñāna,眼識)によって考えられ経験されるから「見ること」なのであり、そして「承認」されていることとは、経験との類似性によって決定されている概念である、としている(17)。

 これらは「正しい世俗」と名付けられる。これらは一・多の自性が認められないから存在しないというやりかたのように、厳密に検討されない限り好ましく承認されるべき、まったく当たり前のこととして承認されている物事を示す概念である。それは偈にも述べられる通り、一般に起こったり消えたりする現象世界を基盤とする概念であり、実際的な場において経験される物事の作用を示している概念である。

 『難語釈』によれば、この「正しい世俗」の反対概念が「正しくない世俗」と呼ばれるものである。この例として、インドのヒンドゥー教の神「自在神」が挙げられている。「正しくない世俗」はまったく知覚されない神などの実在を主張することを示しており、それがなぜそう呼ばれるかというと「一般的な考えから明らかに外れているからである。」

 ところで、この部分はシャーンタラクシタが基いている仏教論証学の無神論的な一面をよく示している部分である。これによれば、なんらかの効果的作用を示さないものは存在しないのである。神などは実際の現象世界に対応するものを持たない「まったく概念のみの存在」であるから、実際的な作用を示すはずがない。『中観荘厳論』はこのように世俗を「作用を持つものと持たないもの」によって、二つに分けて考えていたのである。これに従うならば、世俗においてはわれわれの日常経験を超えた異常な認識、あるいは神などの実在を主張することはできないことになる。また、このように考えなければ、何が現実を表している概念なのか、何が実際に存在しないものを表している概念なのか、区別がつかないことになってしまうのではないか。もし区別が付かないとするならば結局は「言語活動はすべて虚妄である」として、否定してしまうことになってしまうのではないだろうか。

 このように、世俗をダルマキールティが規定した「効果的作用の有無」によって区別することは、シャーンタラクシタの哲学の特徴の一つでもある。世俗を正しい世俗と正しくない世俗に分けて考えること自体は、中観派の歴史に照らし合わせてみれば、バーヴァヴィヴェーカ以後の自立論証派に特徴的な考え方であるが、シャーンタラクシタはそれをダルマキールティの論証学を導入してさらに徹底させて論じている。これは先にも見たようにシャーンタラクシタの師ジュニャーナガルバが初めて用いた方法でもある。

 ナーガールジュナによればこの現象世界は縁起しており、厳密に検討すれば、それ自体を言葉や象徴によって「表現」することは不可能である。シャーンタラクシタはそれをふまえたうえで、縁起によって生じている現象世界とそれを指向する概念のみが、勝義を理解するために必要な世俗であると考えて「正しい世俗」と名付けたのではないだろうか。それは厳密に検討されない限り好ましく承認される、当たり前の現象世界と、それの本質を適切に表現する概念(=仏の教え)であり、なんの作用も示さない「概念のみで成立している概念」や「不変化の自性を持って存在している神などの概念」とはまったく異質のものなのである。

 そして次に『難語釈』は「正しい世俗」が「仮設」という言葉で『中論』にすでに言及されているといい、この部分を註釈している。それが言及されているとする部分の『中論』のサンスクリット原典を示し、三枝氏の和訳を示せば以下のようになる。

yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe/

sā prajñaptir-upādāya pratipatsaiva madhyamā//(18)

「およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であることと(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道である。」

『難語釈』これを以下のように解釈している。

 「「縁起によって生じる諸存在は、実に勝義の自性と切り離されているからであり、空というのはウサギの角[=まったくの非存在を示すためのインド論証学上の実例]と同じ本質であるからである、ということではない。ゆえに[空は]経験などと矛盾しないのである。

 「これ[=世俗]は相待(upādāya,rgyur byas,因成)によって仮設されて」とは、[相待と仮設が]世俗それ自身であるという意味である。相待と仮設の語は、世俗の同義語であるからである。世俗はこれに基づくのである。

 「これ自身が中道である」とは、増益と損減の二極端を否定するから、これ自身が[増益と損減]それぞれに対して中の道を教示する、という意味である。」

この解釈で明らかなように、シャーンタラクシタ師弟は『中論』の立場を論理的に解釈し、それを忠実に祖述しようとしていたことがわかる。

 ところで『中論』のこの偈は古来中国仏教では「三諦偈」と呼ばれ、『中論』の思想の核心を示すものとされた。とくに天台智顗はこの偈を「因縁所生法、即空、即仮、即中」つまり「因縁によって生じられた物事は、そのまま空であり、そのまま仮であり、そのまま中である」と解釈し(19)、それに基づいておびただしい著作を著わした。これはインドと中国における解釈が、表現こそ違うものの、その本質においては同じ方向性を有している、ということを示している。

(2.3.4)正しい世俗と因果関係

K.65

[厳密に]考察がなされない限り喜ばしいものにおいては、より以前の自性因(=つまり不変化の性質を持つ原因という概念)が、/

より後の(自性因に)依存するから、結果がこのように起こるのである。/

 第64偈においては、主として「正しい世俗」の定義について述べられてきた。つぎにその「正しい世俗」と仏教の説く因果関係はどのように関係するのかが考察される。

 『自註』によればこれは以下のように説明される。すなわち、「[原因・結果の関係は厳密に検討すれば]考察に耐えない自性因に依存して生起するならば、原因がないことにどうしてなるだろうか」(20)。

つまり、そのような原因(=不変化の性質を持った原因という概念)は勝義を明らかにする論理によって厳密に検討されるならば存在しないが、因果関係の成立する正しい世俗においては好ましく承認されるべきものである。従ってそれが正しい世俗において否定されることは決してないのである。それは正しく縁起する現象世界の実相である勝義の世界を示している概念であるからである。これは勝義そのものにおいて、それそのものを示す言葉は存在しないけれども、世俗の言葉を使って示すならば、それは「因果関係」という言葉になる、という意味である。

 ダルマキールティは、原因が肯定的必然的な関係を本質として備えているから、結果が起こるとしている(21)。ただしこれも「世間においては」という限定のもとにいわれているのであり、勝義そのものにおいては、無自性であるからそれを指し示す言葉は存在しない。

 『自註』によれば、考察に耐えないことにおいて対象となることができる現象とは「正しい世俗」のことであって、プドガラ(pudgala,人)、つまりバラモン哲学がその実在を主張するアートマン(ātman,個我)などはそうではない[つまり「正しくない世俗」である]という。なぜならそれらプドガラなどは、感覚器官の対象ではなく、何の作用も現実に示さないからであり、勝義の立場から厳密に検討するまでもなく、存在しないものである。従ってそれは実際の経験に基づかない単なる想像上の実在であるに過ぎない。

 以上のように、この『偈』においては、第六十三偈以来説明されてきた「正しい世俗」が、「因果関係」を指し示している、ということが説明されていると言えるだろう(22)。

(2.3.5)言語活動と正しい世俗

K.66

このゆえに原因のない世俗は、よろしくないと言うことは(当然)その通りである。/

(しかしながら)もしこの「対象[=恒常的な原因]」(23)が、勝義においても存在するのなら、これを述べよ/

 前の偈の解説では「正しい世俗」おいて、因果関係が成立することが説かれた。しかし、インド哲学一般では、中観においては概念が否定されているはずの「勝義そのもの(=仏の認識する世界)」においても、そこに因果関係の自性が認められるという主張があった。これを主張するのは例えばサーンキャ学派などであり、彼らは、そこに根本原性(prakṛti)などの恒常的な原因の自性が存在するとし、それを「因中有果」という表現で主張した。

 本文においては、「[仮に勝義の]智慧によって考察されても、そ[のような恒常的な]原因の自性が存在するならば、それが成就することをのべよ」とこの説を批判している。仏教の勝義、すなわち仏の認識する世界においては、恒常的で根本的な原因の自性など存在しないことはいうまでもない。なぜならそれは四句否定によって完全に否定されているからである。

 ところで、アートマンの有無に関して、その非存在に言及する経典は、初期仏典に存在している。

 初期仏典の『ミリンダ王の問い』には、車が車輪や荷車などの部分の集合体であり、それぞれの部分は車とは呼ばれないのに、全体が集まって一つの機能を果たしたときに、それが初めて車と呼ばれるように、人間も皮、骨などの部分が集まって機能を果たした場合に人間と呼ばれるといわれる。しかしこの場合、それが部分の集合であることになんら変わりはない。したがって人間とはただの呼び名であって実際には存在しないのだ、という議論が出てくる(24)。上に掲げた「智慧によって考察される」とは具体的にはこの仏典の記述によって考察することを指している、と『難語釈』に注記されている。これは排中律による厳密な考察のことを指しているのである。

 そして『自註』はさらにナーガールジュナの『言語活動の成立』(Vyavahārasiddhi)という論書を引用して、勝義を明らかにする論理によって厳密に考察するならばいかなる物事にも自性がない、ということを証明する。

ここに引用される『言語活動の成立』は、真言(mantra,sngags,呪文)の効力と、縁起する物事について述べている。その要旨を示せば次のようになるであろう。

 真言は一でもなく多でもない。しかしそれを唱えればなんらかの効力を発揮するので、[真言が]存在しないこともない。また縁起している物事[=シャーンタラクシタによれば正しい世俗]は、存在するのか存在しないのかについてある人は議論したがるが、それはあたかも視覚健常者にとっては物が見えるということと同じくらいまったく当たり前のことであり、議論するほどのことはない。そのように全ての存在は言葉によって仮に設定されたものであり、これによって全ての教えは説かれているのである(25)。

 これは『中観荘厳論』が主張する正しい世俗を設定するためには誠に都合のよい内容になっている。世俗における言語活動に仮に自性を認めるが、厳密に検討すればそれは存在しない、ということを示すための引用である。

 『難語釈』はこれに対してかなり詳しく註釈している。まず、この『言語活動の成立』なる論書はナーガールジュナが説いたものである。これによれば、真言の効力や幻術の比喩は、それらが縁起によって生じるから、勝義を明らかにする論理で厳密に検討するならば、存在することと存在しないこととを離れているが、世俗のレベルでは認められる、ということを示している。それでは、このように世俗のみで存在する真言などは、勝義を明らかにする論理によって厳密に検討するならば、いかなる性質のものなのか。まず、それらの真言は文字列によって成立しているから、多数を本質とするものであろうか。もしそうであればこの場合、真言には「あ」という一字で効果を発揮するとされているものもあるから、かならずしも多数の場合のみに効力を発揮するわけではないことになる。しかも、その「あ」という一字の真言も、もろもろの部分が結合したものであるから、それ自体単数であるとは言えない。したがって厳密に検討するならば、そのような単数の真言は存在しないことになる。一方、多数の文字列で構成される真言は、単数の文字の自性が消滅したものである。真言は多くの単数の文字の羅列で、真言を構成しているからである。その場合、その真言は存在するのであろうか。しかしこれもやはり不可能である。なぜなら単数の文字の自性が消滅して、真言を構成していたとしても、そのときも単数の文字の自相(svarūpa)は消滅しないからである。なぜなら単数の文字は見ることができるし、単数の文字の発音を聴くこともできるからである。そのような単数の文字の自性を構成要素として持っている真言は、それを持っている以上、存在しないことになる。つまり真言は、厳密に検討すれば自性を持たない単一の文字で構成されており、存在しないそれらの文字の集合であるから、当然全体としても存在しない、ということになるのである。

 一方、世俗においてはこのような顎の為す行為によって、もろもろの文字が発音せられることも、真言によって毒消しなどの効果が生じることも、経験されるから、真言の効果は否定されないのである(26)。

 これらの論述をまとめるならば、以下のようになる。まず真言は世俗でのみ効果を発揮するものであり、勝義を明らかにする論理によって厳密に検討するならば、自性のないものであり、存在しない。

次に『言語活動の成立』は、正しい世俗において成立する「因果関係」をそれぞれ、世俗の立場、勝義の立場から、それぞれ考察する。

「薬[の効果そのもの]は[薬そのものと]別でない。[魔術師によって作られる]幻の象は、[泥の塊に真言と薬を用いて作られるが]、それら[泥の塊、真言、薬]から[幻の象が顕現するの]でもなく、それら以外から[幻の象が顕現するの]でもない」(27)という性質のものであるから、そのような薬の効果あるいは幻の象が、それぞれの原因とは別に存在することはないのである。したがって幻の象や薬の効果は、世俗においてはそれぞれ泥の塊や薬そのものを「原因」としてその「結果」生じたものであるから承認されるが、勝義においては幻の象は泥の塊とは別に存在せず、薬の効果も薬そのものとは別に存在しないので、それら幻の象あるいは薬の効果という「結果」は存在しない。そしてそのことから泥の塊や薬という「原因」も勝義においては成立しないことが導出されるのである。(28)

上に見たようにカマラシーラはこの『言語活動の成立』のなかの「真言」の問題を中心に、中観の「勝義を明らかにする」論理に則って、世俗の縁起している存在に自性が存在しないことを詳しく解説している。(29)

(2.3.6)世俗の論理と勝義を明らかにする論理

K.67

全ての現象の本質は、正理(=すなわち中観の離一多論証)の道に従う。/

他の諸(の方法)を望むことは排除される。このゆえに論争は存在しないのである。/

 前の偈の後半では、正しい世俗においては因果関係が成立し、勝義そのものである仏の世界においてはそれを表現することが成立しないことが説明された。そこで対論者は次のように反論する。もし勝義において全てのものごとに自性が認められないならば、その勝義は世間とはまったく別の世界であるか、あるいは眼の病気によって見える空中に蓮の花が咲いているという幻覚のように、実際には存在しないものになるではないか。それゆえに、経験などを否定することになるから、聖者の言語活動と世俗の人の言語活動などが設定される(30)という説[=つまり二諦説]と、どうして矛盾しないだろうか。このような疑問にたいして、シャーンタラクシタは「この反論は核心を突いていない」(31)として、第67偈と第68偈を説くことになっている。

 『難語釈』はこの部分について以下のようにコメントする。対論者は勝義においてもしも全てのものごとに自性がないならば、インド論証学で規定される推論の拠所(sbyor ba'i gzhi)が否定されてしまうから、命題すなわち場(dharmin)[=インド論証学は場において推論を為す]が矛盾すると主張する。そしてこれによれば、そのように場を設定して論じる 、すなわち、経験や聴くことや分別や認識の対象を設定して論じるのは聖者の言語活動であり、それらを否定して論じるものは聖者ではないものの言語活動であるということになってしまう(32)。これにたいして『難語釈』は、勝義そのものは世俗的な経験などの対象ではないから、そもそもインド論証学の方法によっては、論じることができないので対論者による反論は正しくないという(33)。

 この対論者は私見によればニャーヤ学派であると思われる。なぜなら、この反論において対論者はインド論証学を勝義そのものであると見なしているからである。これについては少し説明しなければならないだろう。

 ニャーヤ学派のヴァーツャーヤナによって著わされた『正理経注解』には、以下のような文がある。すなわちニャーヤスートラ第二偈に対する註釈の「誤った認識にはじまり、苦におわるこれらの諸特質が、まったく途切れずに作用しているのが輪廻である。しかし、真理の認識によって誤った認識が消滅したので、欠陥がなくなり、欠陥がなくなれば活動がなくなり、活動がなくなれば生存がなくなり、生存がなくなれば苦が消滅する。そして苦が消滅したとき、究極的な解脱、すなわち至福があるのである。」という文である(34)。

 ここにおいてヴァーツャーヤナは真実の認識を得ることによって、究極的な解脱、つまり聖なる世界に入ることができると論じている。ここにいう真実の認識とは言うまでもなくインド論証学の方法、すなわち『正理経』第一偈に列挙される知識手段、知識の対象、疑い、動機、実例、定説、支分、吟味、確定、論議、論争、論詰、擬似的理由、詭弁、誤った論難、敗北の立場にたいする真理の認識において得られた認識のことであり、具体的にはアートマン(ātman,物事の個我)、身体、感覚器官、対象、意識、思考器官、活動、欠陥、転生、結果、苦、解脱[の実在]を認識することを指す(35)。先の『難語釈』における反論のなかの「認識の対象」という語はこれらを指していると思われる。そしてこれらはニャーヤ学派にとって勝義そのものに他ならないのである。

 ところでニャーヤ学派はアートマンが存在しないという認識を誤った認識であるとしたり、帰謬法を誤った論難であるとしたりして、仏教の、特に中観派の用いる方法論を批判している。これについて梶山雄一はニャーヤ学派の根本聖典であるニャーヤスートラは仏教徒、特にナーガールジュナとの論争の影響を多分に考慮して説かれているとされている。これはニャーヤスートラが取り上げる主題を分析するならば、もっともな説であるといえるだろう(36)。そこでつぎに、インド論証学的方法にとって西洋論理学...時代から考えてそれはギリシャの古典論理学である可能性が高いが...の方法が付随的あるいは誤謬として扱われていた理由と、ナーガールジュナ当時の仏教徒とギリシャ世界との関係、およびインド世界における仏教徒の文化史的位置づけを明らかにする必要がある(37)。

 筆者は現在のところこのような問題に関する知識を持ち合わせていないので、残念ながらそれについて論じることはできないが、インド世界とギリシャ世界の「論理的思考方法の相違」が、このような論争に影響を及ぼしているように思われる。そしてそのような思考法の違いは八世紀のインド大乗仏教に至るまで、延々と続く論争の種であったのであろう、と推論する。

 つまり、ナーガールジュナやダルマキールティ、シャーンタラクシタやカマラシーラはこのような思考法の相違を十分に理解しており、それらをインド論証学と西洋論理学の間の方法論的相違としてとらえ、インド論証学的手法の中に排中律などの厳密な要素をとりいれるという方法を創出することを試みたのではなかったか。しかしそれをインド論理学に組み入れることは、至難のわざであった。したがってやがてインドにおいては、バラモン教学の用いるインド論証学的手法のみが正統と見なされることになっていくのである(38)。

 それはさておき、以上のようなニャーヤ学派側からの論難に対して、シャーンタラクシタはどのように反論するのであろうか。

『自註』においては以下のように述べられている。

 「俗人から聖者にいたるまでの厳密に検討されない限り好ましく承認される自性をわれわれは否定しない。しかし、以前にも考察したように勝義において、結果が前もって存在する、存在しない、存在しかつ存在しない、存在するのでもなくかつ存在しないのでもない、と論じるサーンキャ学派のような説は否定されるのである。これについてアールャデーウァ(āryadeva)も言っている。

”およそ「存在する、または、存在しない、または、存在しかつ存在しないこと」が存在しないと主張する、そのような人に対して、反論することは、たとえ永遠のあいだかかっても、できない。”」(39)

 上の『自註』の文は、次のように解釈できるであろう。まず、ニャーヤ学派の反論はインド論証学によって聖俗が区別されうると論じているために、核心を突いていない。なぜならインド論証学的手法一般はシャーンタラクシタから見れば、世俗においてのみ成立するものであり、厳密に世俗と勝義を区別するために用いられる、仏教の勝義に導くための論理ではないからである。『偈』で述べられる「正理」はこの「仏教の勝義」すなわちすべてのものごとの無自性の認識に導くための論理を意味している。つまりそれは、これまでシャーンタラクシタが繰り返し説いてきた「離一多証因」による論証であり、次の『偈』(K.68)に説かれる「四句否定」の論理を用いた論証のことを指している。

俗人と聖人に関わりなくすべての人よって、インド論証学的手法により直接知覚(pratyakṣa or anubhava)される物事は「正しい世俗」であるから、それは厳密に検討されない限り好ましく承認されるものである。しかし、ニヤーヤ学派やサーンキャ学派のように、勝義においても「物事の実在」を前提とするインド論証学的手法が成立すると主張するならば、それは間違いである。なぜなら、勝義そのものはあらゆる言語活動を離れているからである。それゆえに、仮に大乗仏教徒が全ての現象には本質がないと主張したとしても、それ自体は言語活動であるから世俗であることになり、決して勝義そのものではない。したがってたとえそれを説いたとしても、世俗における言語活動に過ぎないから、仏教の勝義である空性(śūnyatā)そのものを、決して表してはいない。論理が可能な範囲は、その認識ないし体験の直前まで導くだけであり、決して論理が真理そのものではありえないのである。

(2.3.7)勝義を明らかにする論理

K.68

存在することと、存在しないことと、存在しかつ存在しないこととを、承認しない人は、/

努力を具えた人によっても、いかにしても呵責されない。/

 この偈は『自註』に引用されているアールャデーヴァの偈と同じである(40)。すなわちこの偈は対論者の前提する、実在論を前提としたインド論証学的視点からは考察不可能な、中観における「勝義そのもの(=つまり仏の認識する無自性空であり縁起しているもの)」の直感的理解に対論者を導くために、以前にも説明した四句否定を用いて説明するものである。

 ところで、この四句否定による主題の否定は、初期の仏典にも現れる。例えば中阿含経の中の有名な『箭喩経』は、形而上学説にたいするブッダの態度を示したもっとも良い例である(41)。それによれば、ブッダ当時のインド哲学には四句分別を含め十ないし十四の判断形式が存在した。ブッダはそれらを永遠に解決できない問題として、無記(avyākata)という言葉で表現し、それ自体解脱のためにはなんの役にも立たないとして否定した。

 しかし実際には、後世の部派仏教などで、主として四句分別に基づき、外界の現象を分類する阿毘達磨哲学が発達していったのである(42)。従ってこれをブッダの本意ではないとしていた大乗仏教は、四句分別自体が成立しないことを示そうとした。大乗仏教の教義を哲学的に整理した人物でもあるナーガールジュナは、この四句分別が成立しないことを論証することに成功した。それは主として『中論』に、排中律や矛盾律の適用などの厳密な手法を用いることによって述べられることになるのである(43)。

 したがってこの偈においては、ナーガールジュナ以来伝えられてきた中観哲学の核となる論理を示すことによって、大乗仏教における勝義そのものが、あらゆる言語表現を超えていることを、排中律を用いたうえで表現することが意図されているのである。

(2.3.8)勝義を示す言葉

K.69

このゆえに、真実そのものにおいてはどんな現象も確立されない。/

このゆえにもろもろの如来によって、すべてのもろもろの現象は、起こらない(anutpanna,ma skyes,不生)といわれた。/

 この偈は『自註』において以下のように注釈されている。

 「それゆえ真実そのものにおいては、原子などの微細な物質なども全くその存在が証明されない。なぜなら、以前にも述べたとおり、単数性と複数性を離れているからである。これゆえに勝義においては、生起も、これの前提となる住も、無常も、これらに依存する物事のほかの法も、(いかにして)存在するのであろうか?(そのようなものは存在しない)」

つまり、勝義そのものにおいては、縁起しているものが「存在するという性質がない」ことを示す。これについてシャーンタラクシタは『父子相見経』を引用して説明している。

「縁起に従い入るので、真実の世界(dharmadhātu,法界)に従い入る(anuvṛtti,従って起こる)教えが説かれるのである。世尊よ、無明は無明の自性が無いのである。これはなぜかというならば、このように無明は自性を離れているからである。およそ自性の無い現象は、現象でない。およそ非存在であるものは、まったく成立しないのである。およそまったく成立しないものは、不生である。およそ不生であるものは、不滅なのである。およそ不生不滅であるものは、過去であると仮説できない。未来であるとも、現在であるとも仮説できないのである。およそ三つの時において知覚されないものは、名称が存在せず、特徴が存在せず、形相が存在せず、仮設が存在しない。その他に方法が無い、名称のみである、言語習慣のみである、言説のみである、世俗のみである、教説のみである、仮設のみであるなどのような、衆生たちが立てる対象に機能する言葉を除いては、この無明は勝義においては認識が存在しないのである。およそ勝義において認識が存在しない現象は、仮設も存在しないし、言説することも存在しないし、教説することも存在しない。世尊よ、およそ「名称のみ」ないし「仮設のみ」と言われるこれらも、真実においては存在しない」(44)

 これについて『難語釈』はこのように注釈する。
「「縁起に従い入る」とは、無明(ma rig pa,avidyā)(から老死までの十二支縁起)などのことである、という意味である。

「真実の世界」とは、全ての現象の自性が、生起しない特徴をもつ場所である。

「名称が存在せず」とは、言葉の認識対象(pracāra)が対象でないということである。

「特徴(lakṣaṇa)が存在せず」とは、生起などの特徴と離れているということである。

「形相(nimitta)が存在せず」とは、共通しない対境(a-sāmānya-viṣaya,直接知覚によって認識対象を)を明らかに認識する認識(saṃjñā)の対象は、青色などの[一般的、概念的な]形相を持たないから、そう言われるのである。

「仮設できない」とは、分別の対象が存在しないからである。次に、いかにしてこれらを説くのであろうか、と考えるならば、「その他(anyatra)に方法が無い」云々と言われる。これは「衆生たちが立てる対象に機能する言葉」を使うより「その他に」ないのである、という意味である。ここにおいても、それが説かれた範囲内で[名称が]起こるであろう。

「名称のみ」云々については、2句は2部分ある句の、前半に説かれたものを、後に説明することにする(順序を逆に説明する)。

「世俗」は世俗の意識において、迷乱を伴う顕現に本質が存在するという意味である。これが顕現して分別がある、と言われる。またこれらすべては同義語(paryāya)である。さらに最初の説明が残っている。無明が三つの時間において存在しないこともまた、なぜ指示の対象が存在しないのか、と考えるならば、「この無明は」と述べられる。次に、全てが単なる名称のみの存在であるということが成立するので、(それが)単なる名称のみで存在するのだ、と考えるならば、仏は「名称のみ」であるとおっしゃったのである。「これはなぜかというならば」と言われたのは、(勝義そのものにおいては)無明などが三時においても存在しないからである。」

 要するに、『難語釈』による限り、この経典は勝義そのものが世俗の認識によっては認識不可能であることを示す論拠として引用されているのである。これはインド論証学的に言えば聖言量(āgama)、あるいは声量(śabda)に相当すると思われるが、勝義を示すためにはこの方法以外には不可能である。仏教論証学では現量(pratyakṣa)と比量(anumāna)以外に量(pramāṇa)を認めないはずである。聖言量を示すのはむしろ無形象唯識派や帰謬論証派に見られるものである(45)。ではここで、なぜこのような聖言量が用いられたのであろうか。

 これは以前にも論じたように勝義そのものが、インド論証学的手法によっては理解できないことに関係しているようにも思われる。しかも四句否定によって物事の不生が示されてしまったこの段階では、勝義そのものを言葉(=名称)で示すことは不可能なので、やむを得ず経典からの言葉が引用されるのである。なぜなら「勝義そのもの」の認識は仏以外には不可能だからである。また、仏の説く「教え」は、仮に世俗の言葉を用いて、勝義の世界を説くのであるから、中道そのものなのであるとも言い得る。

これらの経典の引用によって、「勝義そのもの」は「世俗」に過ぎない時間と空間の概念によっては説明できないことが示されるのである。したがってそれはあらゆる観念をはなれ、体験すらはなれた全く不可知の世界を示しているのである。これについていかに論じようとも、その特徴を論じることはできない。論じようとすること自体が不可能であることが、繰り返し述べられるだけである。
ただし、仏のみは勝義を、巧みな方便によって、世俗の言葉を用いて仮に説くことができる。これこそが「中道」なのである。

(2.3.9)方便

K.70

非世俗的な意味と適合するから、これは非世俗的な意味と呼ばれる。/

しかし真実においては、戲論のすべての集合体からこれは解放されているのである。/

 前の『偈』の「不生」は、言葉であるから世俗であるのはいうまでもないが、それ自体、「正しい世俗」なのであろうか、それとも「正しくない世俗」であるのだろうか。今までの『中観荘厳論』の論述に従えば、この「不生」という言葉も勝義を指示する言葉に他ならないから、「正しくない世俗」であることになってしまうのではないだろうか。それは勝義に何らかの特徴があることを示しているように見えるし、仮にこれが存在するとすれば、「不生」なる特徴が勝義において存在することになってしまい、これでは他のバラモン哲学の主張する聖俗の構造と区別がつかなくなってしまうのではないだろうか。

 『自註』によれば、そのような疑問は正しくない。その理由は、この不生という言葉が正しい意味に従うからであるという。しかもそれは厳密に検討された結果を示す言葉であるから、「正しい世俗」である。確かにこれは勝義そのものにおいては成立しないが、現象世界を指し示さない「正しくない世俗」とは明らかに区別されるのである。従ってこれは大乗仏教が強調する「方便」(upāya)であり、勝義を仮にそのようなものであると示す言葉なのである(46)。

『自註』はこの『偈』を以下のように解釈する。

 「勝義は物事と物事でないことと生起と不生と空と不空などの戯論の両極端の網を否定する。不生という言葉はこのような否定の過程で起こる言葉であるから、当たり前のこととして認められる。

[自立論証派の開祖]バーヴァヴィヴェーカも述べるように「真実の高殿という頂きへ登るには正しい世俗の階梯がなければ不可能である。」」(47)

 さらに『難語釈』はこれについて以下のように注している。

「そしてこ[の不生]が[勝義において]存在しないことについて、勝義において[不生などの概念の実在を勝義の本質と]離しておくこと(abhirūḍha)はできないのではないか、と[対論者が]いうならば、それゆえに[、つまり勝義の中にも世俗の自性があるのではないかという疑問を断ち切るために]真実そのものの形象が[仮に]説かれるので、このように[不生などの勝義を表示する概念が]説かれるのであるという意図で、「もろもろの正しい世俗の梯子」云々と[シャーンタラクシタは]主張するのである。

 真実そのもの[すなわち勝義]は「高殿(khang pa)」[という言葉を用いて比喩的に示されているの]である。

 この「上(urdhva)」というのは最も高い終極であって、これに「行くには」と結びつくのである。正しい世俗そのものが梯子であるような意味での梯子であって、「足の拠所」と言うのと同じである。これは規範師清弁の『中観心論』(Madhyamakahṛdaya)を引用しておっしゃったのである。ゆえに、だれかがもし因の三相によって作られた究極の智慧のお言葉を語るならば、このとき、これもまた世俗の形象であるから、いかにして勝義自体であろうか。。」(48)

これらをまとめると、以下のようになるだろう。

まず、勝義そのものに至るためには、「正しい世俗」という手段がなければ到達できない。ただし、それはこの場合、「言葉」である以上、あくまでも世俗であって、手段であることになんら代わりはない。仮にダルマキールティやジュニャーナガルバのように、その手段を「勝義そのもの」、つまり世俗的勝義として絶対視するならば、それは他のバラモン哲学のとる立場となんら変りがないことになってしまうのではないか。なぜならダルマキールティの論証学は基本的には「存在」を前提とするインド論証学でしかないからである。インド論証学の体系はこのように「存在」を前提にするのを特徴とするから、その「存在」が否定された勝義の状態においては、何が論証されるであろうか。従ってこのようなインド論証学的手法によっては、決して勝義そのものを言表できない、ということになる。(49)

 以上の論述で明らかなように、シャーンタラクシタは勝義においてはダルマキールティの論証学を認めていない。なぜなら、その論証学が前提とするものごとの「自性」が、勝義そのものにおいては、存在しないからである。

(2.3.10)言語活動の否定

K.71

生起などが存在しないから、生起がないなども存在しない。/

この本質を否定したので、この『偈』の言葉も存在しない。/

 ここで対論者は、たとえその言葉が「正しい世俗」であったとしても、勝義について言葉が説かれることには変わりはないから、おかしいと反論するので、この『偈』が説かれる。

 『自註』はこれについて以下のように説明している。

「仏教論証学的な立場からみれば、(勝義の立場から見れば本来)自性そのものは言語表現できないにもかかわらず、時間など習慣性(vāsanā)によって、対象が[仮に]自性を持っているとするので、物事の生起は否定されない。(しかしながら)これは他学派の主張するような認識対象[例えばアートマンなどの(想像されただけの存在、つまり正しくない世俗)]を認識することとは違うのである。

 また分別される言葉が、勝義においても成立するなら、分別も識の形象であるから、(厳密な論理による厳密な)考察によって除去されたものではないか、あるいは世俗が分別を拠り所とする、かのうちのいずれかに該当するだろう。いずれも勝義においては存在しないことになるのである。(なぜなら)自性は世俗のみにおいて存在する本質なので、勝義においてもそれが存在するというのは、過大適用の誤りであるからである。ゆえに、不生という言葉も[勝義においては]それ自体存在しないことになる。」

これについて、『中論』第十五章第五偈が引用される。それは次のようなものである。

「もし物事が確立しないならば、物事が存在しないことも確立されないことになるだろう。

なぜなら、物事が変異していることを、ひとびとは物事が存在しないと語るからである。」

また、ミーマーンサ学派の論書『シュローカ・ヴァールティカ』の第二から第四偈を引用して、物事が存在しないことに四種類あると述べている。すなわち、以前にないこと、破壊されてないこと、特徴がないこと、一において一でないこと、である。これはシャーンタラクシタの『真実綱要』にも引用されていて、サンスクリット原文を得ることができる(50)。

また、原子の積み重なった物事が存在しないことは、例えば不妊症の女性に子供がいないように、まったく存在しないものである。

以上の事から理解されるように、「勝義そのもの」は、本来いかなる表現を用いても、決して表現することは出来ないのである。経典などで表現されるのは、「仮設された」言葉なのである。

(2.3.11)全ては世俗である

K.72

対象が存在しない否定は、[論理の]正しい適用ではない。/

概念化に基づいても、[依然として]世俗であり、正しくない。/

 この『偈』について『自註』は三つの大乗経典と三つのナーガールジュナの著作からの引用によって、このことを説明する。

 まず『大海の知恵の経典』には以下のように述べられている。「梵天よ。完全に存在しない法が、存在するという性質だともし言うならば、存在しない性質という現れが説明されるであろう。」

つまり、「勝義そのもの」においては、ものごとが完全に存在していないのであるが、もしそれを言葉で表そうとして「存在しない性質である」と言うなら、それも言葉であるので、「勝義そのもの」を表すことはできない、ということである。

また、『楞伽経』も次のように述べる(51)。

 「存在の前提は存在しない。存在もまた非存在の前提なのである。であるから非存在を考えるべきでない。存在する性質も、分析できない。生じないものが、どうして消滅するであろうか。諸世間を分析し見る者は、これにおいて存在と非存在を見ない。」

 この経典の意味を解説するならば、以下のようになるであろう。すなわち、このような存在または非存在の前提である存在は、その存在が否定されることを時間という概念を用いて説明しうる。もし「存在」ということが存在するならば、次のような矛盾が起こることになる。つまり、現在起こっていることが起こると同時に、過去に起こったことも「存在する」という定義に従うならば起こりうるので、現在起こっている存在と過去に起こった存在が、同時に存在していることになるのである。なぜなら「存在する」ということは変化しないということ同義であるからである。もしも少しでも変化するならば、同一であることが成り立たず、それが「存在する」とはいえない。これは理に合わない。従って存在は存在するという自性を持っていない。それらは「正しい世俗」においては縁起生しているものであり、「勝義そのもの」においては全く表現方法の存在しないものである。 

 次に、ナーガールジュナの著書のなかからの引用によって、この『偈』を説明する。まず『中論』第十五章第六偈の文を引用する。「自らに属する物事、他に属する物事と、物事と、物事でないもの、が経験される。これらはブッダの経説において、正しい経験ではないのである」(52)。

 次に『六十頌如理論』から、次のような一文を引用している。「(縁に)よって(世俗的に生起して)いる諸事物は、水の[中に映った]月のように、(それ自体)正しいとも正しくないとも言えない、と承認する者は、正しくない説に妨げられないのである。」(53)。

 さらに、『空七十論』から、「全ては永遠でなく、永遠でないことも、なにも存在せず、永遠とはこのよう[に勝義においては存在しない概念のみのもの]である。物事の存在は永遠と永遠でないものを離れているので、これが変化するならば、いったい何が存在するだろうか。いかなる経説も、形象性について空であると認識される。空であるということも空である。おなじようにして不空の存在もないのである。」という二偈を引用する(54)。

 最後に『論争の超越』から、次の文を引用する。「何においてこの空性が顕現するであろうか。これにおいて全ての諸対象は顕現するのである。何においてこの空性が顕現しないであろうか。これにおいてはなにも顕現しないのである。」(55)。

 次に、『自註』は『海龍王所問経』からの引用によって、この『偈』に対する注釈をまとめる。引用部分を訳すと以下のようになる。「[時間的に]前の極端は空である。[時間的に]後の極端も空である。生起と消滅とが存在する物事は空である。これは物事が存在することでもなく、存在しないことでもない。一切の現象は本質が空である。」(56)

 これらの引用によって、空や不生などの概念も、仮設されたものであって「勝義そのもの」においては存在せず、かつ、非存在である、と定義することもできないことが示された。従って厳密に検討すれば「勝義そのもの」を概念や比喩によって決して示すことはできない。同時にそれらを拠所とする論理、推論、その他人間の為しうるありとあらゆる考察や研究や調査、実証、さらには経験や関係を用いても、結局それを表現することはできない。それは仏陀のみの知る世界である。しかし修行者はその認識に到達する努力をしなければならない。そのための行ないは好ましく承認される。そのための努力を放棄するならば「全ては存在しないという性質と同義である」というニヒリズムに陥り、そのような「非存在」なる性質は実在しないから、それを実在と見なすことは「正しくない世俗」の見解に等しいことになるのである。

 以上が『中観荘厳論』の説く「勝義」である。それは、言葉では表現できないものが存在する、それを得ればそれで人生の目的が達せられたのである、などというようなあり方とはまったく異なっている。もしそのような見解を持つならばそれは単に神秘主義に随順することに過ぎないことになる。

 これまでのこの文献の論述・主張を簡単にまとめるならば、以下のようになるだろう。

 まず、①実在しない神や形而上学的な概念である「正しくない世俗」を否定し、②その後に「正しい世俗」すなわち当たり前の現象世界に対する深い理解を得ることが強調されている。これはダルマキールティの論証学において規定されるように、知覚と推理に基づくことによってのみ、認められる世界である。③つぎにその「正しい世俗」も厳密に検討すれば、自性をもたないものであり、実在しないことをナーガールジュナの「四句否定」の論法によって理解する。④そして最後に、そのナーガールジュナの用いた厳密な論法も、仮設でしかないことを、大乗経典の引用などによって示すのである。この段階ではもはや存在や非存在も成立せず、世俗も勝義もなく、あらゆる概念の成立する基盤が完全に否定されているとしか言いようがない。それは、仏のみの知る世界である。

このような4段階の構造をもつ『中観荘厳論』における二諦説理解の中でも最も特徴のあるものは、②「正しい世俗」の定義である。それは自立論証派の創始者バーヴァヴィヴェーカがはじめて唱えたものであるが、それとは定義の内容が異なっている。バーヴァヴィヴェーカは「正しい世俗」を仏教の修道階程をも含んだ「世俗的勝義」としてとらえたのに対し、シャーンタラクシタはそれを否定している。従ってシャーンタラクシタにとって「正しい世俗」とは目の前に展開される赤裸々な現象世界である、縁起する世界の認識とその言語表現に他ならなかったのである。

 ところで、『中観荘厳論』に説かれている「勝義そのもの」は、この論の最初で言及したミルチャ・エリアーデの説く「聖なるもの」と「俗なるもの」という世界の分類のうちの、どちらにそれは該当するのであろうか?。これまで見てきた事をまとめて考えるならば、「勝義そのもの」は「聖なるもので」もなく「俗なるもの」でもないことになるであろう。それでもあえて対応させるならば、それは「世俗」、それも「正しくない世俗」でしかないという結論に至るだろう(57)。なぜなら、「勝義そのもの」という表現に、表現される対象が存在しないからである。「勝義そのもの」はどう試みても、表現することは無理なのである。しかしその直感的理解直前まで導くには、インド論理学および四句否定の論理が必須である。人間という存在は、(実体の存在しない)経験や言葉を用いなければ、導くことが不可能な存在だからである。

 聖俗の観念に捕われつつ『中観荘厳論』を読む限り、一般のわれわれが経験する、この世界は「ただ世俗のみである」といっても過言ではないだろう。エリアーデのいうような「聖なるもの」は、『中観荘厳論』の説く「赤裸々な現象世界そのもの」、すなわち「勝義そのもの」には微塵も存在しないのである。エリアーデが言うところの「聖なるもの」は「ただ名称のみのもの」にすぎない。従って、そのようなありもしない「聖なるもの」の実体を得ようとして夢中になることは、何の意味もないにちがいない。そのために費やす努力は、目の前の縁起する現象世界そのものとは全く別のところに勝手に空想された、それこそ「空中に咲いた蓮の花」(58)を得ようと必死になることに等しいものである。それは無駄な努力であり、ただ時間を無意味に費やしていることと等しい。それは目の前に直接見られる現象世界と乖離している、という点で有害ですらある。

そんなものを求めるよりも、「目の前の」現象世界を正しい論理に従って研究し、この世のありのままの姿を実経験によって知り、そしてその結果として、社会貢献を為すことや自らの社会実現を為すことなど、それらをこそ、人間は為さねばならない、とシャーンタラクシタは述べているように思う。これは大乗仏教が理想とする「菩薩」の理念と相応するものであるように思われる。

仏教は人間社会によって生起したことは疑いもない。仏教は人間社会とは離れて存在できないのである。それは仏教の実践にとって極めて重要なことである。


(2.4)チベットにおけるその後の展開

(2.4.1)歴史

 シャーンタラクシタ以後、チベット仏教はどのような展開を遂げたのだろうか。これについて、山口瑞鳳氏は『チベット』(下)に詳しく述べておられる。以下にその概略を示し、チベット仏教の歴史を概観しておこう。

 シャーンタラクシタによってチベットにもたらされた仏教は、時を経るにつれ次第に浸透していった。しかし一方で彼と共にチベットに入ったタントラ仏教僧パドマサンバヴァ系統の密教僧、そして中国禅系統の僧侶も根強い勢力を保っていた。10世紀の前半に西チベットでは若者をインドに派遣して、仏教を学ばせたコルレ王などが現れた。彼の下からはタントラ系の訳経僧リンチェン・サンポ(958-1055)などが現れた。そしてチャンチュプウー王の時代には当時の名僧アティーシャ(982-1054)をインドのヴィクラマシラー大僧院から招くことに成功した。彼は中観哲学における自立論証派の創始者バーヴァヴィヴェーカの『中観思択炎』(tarkajivāla)のチベット語訳を行なった。後にこの系統はカダム派とよばれる。

 密教行者マルパ(1012-97)はインドに赴き、そこでナーローパについて母系のタントラ『ヘーヴァジュラ』を、マイトリーパに「マハームドラー」を伝えられたと言われる。弟子にミラレーパがおり、ガムポパ(1079-1153)によって「カギュー派」として一派を立てた。この系統からダクポ・ゴムツゥル(1116-69)、パクモドゥパ・ドルジェ・ギェルポ(1110-70)、カルマ・ドゥースム・キェンパ(1110-93)などが現れた。パクドモゥパ、カルマ系の流れはのちにそれぞれ一派を立て、転生活仏制度を行なった。ダライラマ制度

はのちのゲルク派が宗派の危機を乗り切るためにこの系統に伝わっていた転生活仏制度をまねしたものである。

 また西チベットでサキャ派が登場したのもこの頃である。この系統のソナム・ツェモ(1142-1182)は顕教に強い関心を示し、自立論証派系統のサンプのネトゥクで学び、アティーシャ系のチャーパを讃仰した。その甥サパン(1182-1251)はますます顕教に傾き、当時イスラム教徒に追われてチベットに入ったシャーキャーシュリーバドラ(1127-1225)について論理学などを学び、彼から具足戒を受けて僧になった。

 ニンマ派はパドマサンバヴァの密教や摩訶衍の禅、そして土着のポン教、民間信仰などが入り混じった複雑な形態の一派である。この派では「大究竟」(rdzogs pa chen po)と呼ばれる教えを説いていた。これは後にロンチェン・ラプチャムパによって「七蔵」という形でまとめられた。内容は『荘子』の「万物斉同」とタントラの「ナーローの六法」が入り混じったようなものであり、極めて難解である。

 その後の時代、サキャ派には、フビライハーンに仕えてチベット仏教を元王室に持ち込んだ、有名なパクパが現れる。かれは1270年には帝師(皇帝の先生)になった。

 元王朝が滅亡すると、サキャ派には元王朝時代に築かれた教団の勢力によって多くの人材が集められた。彼らはシャーキャーシュリーバドラ由来の具足戒を受けて、顕教と密教を兼学し、師資相伝えたので「新サキャ派」とも呼ばれた。彼らのうちで顕教に通じたものとしてヤクトゥク・サンギェーペル(1350-1414)とレンダワ・シュンヌ・ロドゥー(1349-1412)が現れた。レンダワの弟子ツォンカパ・ロサン・タクパ(1357-1419)は独立してチャンドラキールティー由来の帰謬論証派の見解をとり、一派独立した。これがゲルク派(黄帽派)である。

 ツォンカパの主著は『菩提道次第論』(ram rim chen mo)である。これには長尾雅人の和訳(「観の章」)などがある。内容はまず上品(有能な修業者)・中品・下品の三種の有情の道が規定され、次に菩提心の実習次第が規定され、次に大乗の根本が悲(karunā)であることが規定され、以下、悲を実践する順序、悲ということが成立する基準、菩提心の功徳、止(śamatha)、智慧を本質とする観(vipaśyanā)、プラーサンギカ(帰謬論証派)の特徴、禅定(smādhi)に際して全ての思考作用を否定してしまうことが正しくないこと、観察の修習と安住の修習の両方が必要であること、および密教などが説かれる。『菩提道次第論』に最も影響を与えている著作は、アティーシャの『菩提道灯論』と言うよりはむしろ自立論証派のカマラシーラの『修習次第』(1,2,3)である。

 彼の弟子にタルマ・リンチェン(1364-1432)、ケートゥプジェ・ゲレク・ペルサンポ(1385-1438)、タクパ・ギェルツェン(1374-1434)などがいる。新サキャ派ではこれに対抗してバーウァヴィヴェーカ由来の自立論証派の見解がとられ続けた。サキャ派ラマダンパ以来はコンカル、ンゴル、ツァルの三派に分かれた。コンカル派には明朝で「大乗法王」の称号を得たクンガ・タシー(1349-1425)がいた。ンゴル派のヤクトゥクの系統は1429年に建立されたエワム僧院を中心に栄え、ロントゥン・マウェーセンゲ(1367-1449)からコラムパ・ソナム・センゲ(1429-89)によってチベット仏教学に黄金時代をもたらした。ツァル派は後にダライラマ三世・五世に法を伝えた。

 ツォンカパの弟子たちはアティーシャによる小乗・大乗・金剛乗の三乗統合の理念を奉ずるものであったから、アティーシャの直接の後継者たちによって構成された「カダム派」に対比した呼び方で「新カダム派」とも呼ばれた。「新カダム」ゲルク派は次第に信者を旧来のカダム派などの他の宗派に得ながら勢力を伸ばしていった。このため他の宗派に白眼視され、対立が深まった。1542年にゲルク派の長老が死ぬと、カルマ派の転生活仏制度を模倣して、長老の生まれ変わりを選定した。これがソナム・ギャンツォ(1543-88)ある。かれはのちの1577年にモンゴルのアルタン・ハンから有名なダライ・ラマ(Dalai bla ma)の称号を受ける。これが最初のダライラマである。これは聖・俗の権力を一手に握る存在であった。この後この制度はチベット滅亡まで続くことになった。ダライラマ五世(1617-82)は傑物であり、モンゴル政策や外交に実力を発揮した。これに対して反ダライラマの勢力も存在していた。これらのひとびとはパンチェン・ラマ一世(1570/71-1662)を指導者として親中国的な政権を樹立した。後にこの二大ラマはそれぞれ親イギリス、親清朝政権を背景に相争った。ダライラマ14世(1935-)の時代になるとイギリス、中国、ロシアなどによる宗主権争いと干渉は極限に達した。中国側はパンチェンラマ(7世、1938-98)を決めてチベットへの圧力を更に強めた。1959年3月17日、ダライラマ14世は中国軍が包囲する中を命からがらインドに向けて脱出した。

 現在ダライラマ14世は北インドのダラムサーラに住し、共に脱出した僧達によって寺が再建されている。

 以上がシャーンタラクシタ以後、チベットで展開した大乗仏教の大まかな歴史である。

 数多くのすぐれた学僧が輩出したが、この中でも最大の学者はなんといってもツォンカパであろう。彼には『中観荘厳論』について述べた『覚え書き』を残しているが、他の膨大な量の著作に比べれば極々小さなものである。かれはそれまで廃れていたチベット仏教をチャンドラキールティに由来する帰謬論証派の所説を自己の拠所として再興した。その系譜に属するものはゲルク派とよばれ、チベットでは最も正統な学系であると見なされる。付論において訳を試みた『中観荘厳の覚え書き』の著者タルマリンチェンもこのツォンカパの弟子であった。

 一方、シャーンタラクシタと同じ時期にチベットへ入った密教僧パドマサンバヴァが伝えた密教は、その後土着のシャーマニズムや中国禅と習合して、ニンマ派という一派を形成した。これはとくに一般の民衆の間に流行した。『中観荘厳論解説』を著わしたミパン・ギャンツォはこの派に属していた19世紀の学僧である。かれはチベットにおいては「無宗派運動」の唱導者とされており、有名なラマのうちの一人でもある。ニンマ派はチベット仏教一般からは異端視されていたが、民間からの根強い信仰を得ていた。その所説は密教的であるというよりもむしろ中国禅的であると言える。そのため『中観荘厳論解説』には独特の実在論的な傾向が見られる。彼の中観哲学を評して「他空説」であるという人があるが、それは彼が自己以外の他者に限って空とすることに基づいている。

 以下にそれらの注釈書に見られる解釈、特に「二諦説」の解釈をどのようになしているかに絞って述べることにする。ただし、これらはあくまでも解釈なので、それがインド仏教から見れば基本的な誤りをおかしている可能性が大きい。以前にも指摘したように、チベットではインド論証学に対する特殊な解釈がなされていたこと、そして実在論に基づく中観哲学はありえないことには十分注意するべきである。

(2.4.2)チベット人注釈者による『中観荘厳論』の二諦説解釈

 まず、『中観荘厳論』第六十三偈について、ミパムは次のようにのべている。

「もし(gal te)これら('di dag)」という二つの単語になっているものがいくつかのテキストに見られるが、「ba」が除き去られているから、文字は正しくない。非常に正しいもろもろの古いテキストには「bdag(=我,アートマン)」とまさにあるのを取られたい(拙訳)。」

 これは、前にもあげた松本氏の書評のなかにすでに指摘されている。それは「このK63cが『自註』において"gal te rnam pa de ltar gshan gyis ma bcos pa'i dngos po thams cad ngo bo nges par 'dzin par 'dod na"(もし、部分がこのように他の一方によって作られたものでないすべての存在物の本質(svarūpa)を定義する、と理解するのを承認するならば)(D.ed,Sa,70a3)と注釈されていることは明らかであり、"bdag"(我)と"gshan gyis ma bcos pa'i"(他によって作られざる)は対応している。従って、著者もミパムにしたがって、"bdag"の読みを採用したい」という部分であるが、これについては、その「非常に正しい古いテキスト」が現在のところ発見されていないので、文献的には信用するに足りないが、文脈上、そのような解釈も成り立つと思われる。従ってこれはミパン独自の解釈である可能性が高い。

 一方、ツォンカパの弟子のギャルツァプ・タルマリンチェンは『中観荘厳の覚え書き』の中で、この第六十三偈について次のように述べている。

 「「この」などの偈において、[主題:]「これらの実体」(K.63a)が主題(dharmin)である。[それらを論証する]方法が誤っていることになる。 [理由:]なぜならそれらの確立された基礎、そして真の実在の確立が[すでに]論駁されているからである。後半の二[偈](K.63cd)によれば、主題(=これらの実体)に対し、正しい認識によってすでに真に確立しているので、私は[それを]真に確立してしまった、と論駁することは私にとって誤っている、ということである。さもなければ、それ(=対論者が、確立されているとしている恒常的な実体)は以前の原因[である物事の恒常的な実体]から生じるため、[それを]正しい認識によって論駁するのは間違いであることになる。したがってそれは単に人の希望によって成立するのではない。」

 この文が意味しているのは、この偈の前の部分からずっと対論者やシャーンタラクシタ以外の仏教徒が、実体は「正しい認識によって確立している」と主張しているが、もしそうだとすれば、それらの実体は以前の恒常的な「原因」によって確立しているはずだから、「正しい認識」によって確立している、と主張することはできない、ということである。

これは相手の主張を帰謬論証(=背理法)によって矛盾に導き、論破する方法である。

 以上に示した部分からもわかるように、タルマリンチェンは『中観荘厳論』そのものの主張(つまり、単数と複数の中間概念を排除する排中律を論拠とした自立論証)には従わず、師のツォンカパが最高の所依としたチャンドラキールティの帰謬論証をもちいて『中観荘厳論』を解釈していた。しかも、いちいち主張命題を設定して、それを帰謬に持ち込むあたりが、以前にも述べたチャーパ流の独特なチベット論理学による解釈である可能性が高い。実際、後のほうになるとチャーパの創作した論理的変数"khyod"が数回現れる。従って、これらの解釈もタルマリンチェン独特のものであるということができるだろう。

 以上に『中観荘厳論』にたいして注釈を著わした、二人のチベット人の注釈を検討してみたが、そのうちのどちらも『中観荘厳論』を正確に解釈していなかったことがわかる。これらはチベットにおいて『中観荘厳論』の扱われかたがどのようなものであったかを示しているのではないだろうか。

付論にこのタルマリンチェンの『中観荘厳の覚え書き』の試訳を示すが、それは『中観荘厳論』全体を腑観する意味でこの文献が非常によくまとまっているからであり、その特殊な解釈方法について考察するためではない。


結論

 以上に見てきたように、『中観荘厳論』においては(1)勝義そのもの(2)正しい世俗(3)正しくない世俗の三つがしっかり区別されて述べられている。そして「勝義」を知るためには「世俗」でのみ成立する直接知覚という認識根拠(pratyakṣa)ではなく、勝義的な論理であるナーガールジュナの使用する厳密な四句否定の論理によらねばならない、それによってみられるのはどんな自性も持っていない縁起生の世界であり、それは同時に空でもある、しかしながらその正しい認識に至るための概念は、世俗においてのみ好ましく承認される認識対象であるにすぎないことは言うまでもない、ましてや経験されない想像上の存在や概念などは、世俗においてすらも承認されない、ということが理解された。ナーガールジュナの説く四句否定の論理は、シャーンタラクシタにおいてはインド論証学の形式にあわせて「離一多証因(一多の自性が無いゆえに)」という論証因に簡略化された。

 本書における二諦説解釈の最大の特徴は、先に述べたように、ものごとの自性の離一多証因による否定を、勝義の説明のために用いている点である。これはダルマキールティが設定した不認得証因を厳密な排中律で説明し、それをインド論証学的に論じたシャーンタラクシタの卓越した見識を示している。これによって、それまでの中観哲学においてあいまいであった勝義諦そのものの表現が、厳密な論理をもちいることによって、世俗においては微塵ほども存在しえないと示すことがインド論証学の伝統の中で説明できるようになった。それは縁起する現象世界に対し、正しい言語と論理を使用して理解されるものであることも明らかになった。これによってナーガールジュナが説いた二諦説の意味が、シャーンタラクシタによってインド哲学一般に対し、正しく示されたのである。

 仏教史的に考えるならば、このような二諦説に関する論議が必要とされたのは、八世紀における密教の隆盛と仏教全体の衰退のなかで大乗仏教がなんとかして存続しようとした結果であるとおもわれる。シャーンタラクシタが、世俗において「ものごとの実在」を前提とするはずのインド論証学による論証形式を認めたことは、ナーガールジュナ以来の大乗仏教の論理的一面がもはや理解されないほどに、周り中がほとんどヒンドゥー教一色になっていたこの時代の状況を考慮するならば、むしろ当然のことと思われる。インド哲学一般との交流を否定してしまえば、インドにおいて仏教は存続する意義がなくなってしまうからである。

 事実、シャーンタラクシタが在世して、それから約三世紀後に大乗仏教はインドから完全に姿を消し、ヒンドゥー教の中に解消してしまった。これから確かに言えることは、たとえ当時の仏教の学僧たちが論証学によって仏教を守ろうとしたとしても、もはやヒンドゥイズムの隆盛に逆らうことはできなかった、ということである。

これまで見てきたように、ナーガールジュナはもともと密教のような神秘主義の体系を論理的に否定する作業に成功した人物であると筆者には思われる。もともとナーガールジュナの議論は、煩雑な哲学体系を批判し、縁起する「あたりまえの現象世界」に向かっていたのではないだろうか。そして現実そのものである縁起する世界を正しく理解することによって仏陀の説く法の理解が得られる、と言いたかったのではないだろうか。しかしそれが後世のチベットなどでかえって神秘主義の理論的根拠になっていった、という事実は否定しがたい。それはその後の密教の大きな発展を見れば明らかである。今日までネパールにかろうじて残っているインド直系の大乗仏教においても、結局はヒンドゥー教と融和して重層信仰的な形態をとっているのが現状である。従ってナーガールジュナの説いた論理的な体系は、必ずしも正確にインド人やチベット人に理解されていたとは言えないのではないだろうか。ダルマキールティやシャーンタラクシタがそれを理解したとすれば、それは例外的な出来事であったということすらできるように思うのである。 

終わり



(1)
山口瑞鳳「「縁起生」の復権」『成田山仏教研究所』(13)、1990、p.1参照。
(2)
小林守「『中観荘厳論』とその注釈書をめぐる二、三の問題」『仏教学』(26)、1989、pp.1-20参照。
(3)
松本史朗「後期中観思想の解明に向けて」『東洋学術研究』(25)-2、1986、pp.177-203参照。
(4)
長尾雅人ほか編『岩波講座・東洋思想 第十巻』(インド仏教 3)岩波書店、東京、1989、p.195参照。
(5)
戸崎宏正『仏教認識論の研究』(上)大東出版社、東京、1979、p.173によれば、不認得証因に三種がある。まず、原因が認められないという証因(kāraṇānupalabdhi,因不認得)、次に、主語の本質が認められないという証因(vyāpakasvabhāvānupalabdhi,能遍自性不認得)、そして三番目が、本質が認められないという証因(svabhāvānupalabdhi,自性不認得)である。この「離一多証因」は三番目の自性不認得証因にあたる。:cf. Thakur A. "Jñānaśrīmitranibandhāvali",Tibetan Sanskrit Work Series vol.5,Patna,Jayaswal Reserch Institute,1959,pp.183-190."Anupalabdhirahasyam"
(6)
梶山雄一訳『論理のことば』中央公論社、東京、1975、p.63参照。これによれば、想像上の物事などの実在しないものを示すためにこの証因は使えないとされている。
(7)
小林守「シュリーグプタ作『真実への悟入』」(上)『論集』(19)、1992、pp.94-89参照。
(8)
北川秀則『インド古典論理学の研究』鈴木学術財団、東京、1965、p.34参照。中観哲学における所依不成の問題については、小林守「無自性性論証と所依不成(āśrayāsiddha)の問題」『文化』(50)-3/4、1987、pp.41-60参照。
(9)
前掲『インド古典論理学の研究』同所参照。
(10)
MAV.p.22,l8~10.この部分を訳せば以下のようになるだろう。「なんらかの自性が存在するならば、単一あるいはもう一方を超えないのである。これらはお互いに排除しあって存在するのが特徴であることにより、他の集合を除去するのである。」
(11)
MAP.p.23,l1~10.この部分を訳せば以下のようになるであろう。「[そのような存在は]自性と切り離されているが、それらにおいて自性と切り離されるものが存在するという言葉と結びつく。これは認識の結果である。推論とはこのようなものである。一と多の自性ではないものは、勝義において自性が存在しない。例えば、映像のようなものである。「自派と他派によって説かれる諸現象も、一と他の自性ではないから」、とは能遍の自性が不認得である。なぜなら一と他の本性によって自性が遍充されるからである。遍充することに依存するから「なんらかの自性が存在するならば」と主張されるのである。「一」とは部分が存在しない性質である。「多」とは多数性であって、区別される性質である、という意味である。」
(12)
戸崎宏正『仏教認識論の研究』(下)大東出版社、東京、1985、pp.45~46参照。
(13)
長尾雅人編『世界の名著』(1 バラモン教典 原始仏典)中央公論社、東京、1969、p.247、ブラフマスートラ2-1-14に対する註釈参照。
(14)
See MAP. p.197,ll.8-11. "'di skad du yang dag pa dang yang dag pa ma yin pa dag gis ni phung po thams cad la khyab ste/ de gnyis ni phan tshun spangs te gnas pa'i mtshan nyid yin pa'i phyir ro// yang dag pa'i ngo bo bkag na shugs kyis 'di dag gcig (cig D) shos su gnas par rang bzhin gyis 'gyur ro zhes bshad par 'gyur ro//".
(15)
See MAP. p.197,l.12. "lcags kyu med pa zhes bya ba ni rang dga' ste de ni res 'ga' 'di dag gi ngo bo brdzun par yang 'jog par 'gyur ro snyam du bsams pa'o//".(「鉄のカギが無い」とは自ら喜んで、それがときどきこれらの誤った本質においても成立するであろう、と考えることである。) 「偽の中に真がある」という考え方は現在においても直観主義の論理学や多値論理学なのどのなかに残っている。これについては、大窪徳行ほか著『論理学の方法』北樹出版、東京、1994、pp.27-32参照。しかしながら、これらの論理学体系も、結局は古典論理学の真理値を無視することは出来ない。
(16)
山口瑞鳳「「縁起生」の復権」『成田山仏教研究所』(13)、1990、p.8参照。チャンドラキールティは概念的存在と、現象とを混同していたという。
(17)
See . MAP. p.203. mthong ba ni mig gi rnam par shes pa la sogs pas nyams su myong ba'i phyir ro// 'dod pa ni ji ltar nyams su myong ba bzhin nges pa'i (pa'i shes P) phyir ro//
(18)
三枝充悳『中論』(下)第三文明社、東京、1984、p.651の注(1)参照。
(19)
中里貞隆訳『妙法蓮華経玄義』(国訳一切経 経疏部 1)大東出版社、東京、1936、p.21参照。
(20)
See MAV. p.210. dpyad (spyad NP) mi bzod pa'i rang gi rgyu la brten nas 'byung na rgyu med par ji ltar 'gyur//
(21)
See Shāstri C. "Nyāya Binduḥ", Kashi Sanskrit Series 22,Varanasi,Chaukhambha Sanskrit Sansthan,1982,p.39.
"kāryakāraṇabhāvo loke pratyakṣa-anupalambhā nibandhanaḥ pratīta iti na svabhāvasya iva kāryasya lakṣaṇam uktam"
(22)
松本史郎「後期中観派の空思想」『理想』(610)、1984、pp.143-147参照。これにおいて松本氏は『中観荘厳論』第64偈と第91偈を考察し、そこに説かれる世俗が因果関係にある事物、すなわち唯識哲学の依他起性に相当するものとしている。筆者は因果関係と依他起性が同義であるとは思わない。縁起の世界と因果関係の世界は明らかに別のものであり、前者がただ顕現するだけの現象であるとするならば、後者ははっきりと原因と結果を備えている現象を指しており、意味の上で相違があるとみたい。ただしこの論文が『中観荘厳論』が世俗において因果関係を説いていることを指摘したことは評価できる。
(23)
upādāna=material cause,物質的原因。See Williams M. "A Sanskrit English Dictionary",p.213b.
(24)
長尾雅人編『世界名著』(1 バラモン教典・原始仏典)中央公論社、東京、1969、pp.541-545.:cf. Trenckner V. "The Milindapañho",Pali Text Society 69,London,Luzac and Company,1962, pp.25-28.
(25)
See MAV.p.216.
(26)
See MAP. p.215,l.4-6.
(27)
See MAV. p.214.
(28)
See MAP. p.217,l.2.
(29)
一郷正道『中観荘厳論の研究』文栄堂、京都、1985、p.164参照。
(30)
一郷前掲書p.165ではこの部分が「(それらについて)聖者の言葉(は正しく)、凡人の言葉(は正しくない)というきまりきった定説」と訳されるが、筆者はこの部分の「きまりきった」という部分が理解できなかったので、『蔵梵辞典』を見たところ、"rnam par gzhag pa"に対応するサンスクリットに"Avasthāpyate"「それが設定させられる」という言葉を見つけたので、それを用いた。こうすれば、それが二諦説を示すことが明かとなり、対論者によってシャーンタラクシタの説く二諦説そのものが非難されていることがわかる。
(31)
See MAV. p.220,l.1. klan ka 'di snying po yod pa ma yin te/
(32)
See MAP. p.219. "'di ltar grub pa'i mtha' las ni mthong ba dang thos pa (D118b) dang (C118b)/ bye brag phyed (byed NP)
pa dang/ (P125a) rnam par shes (N117b)
pa'i don rnams la de bzhin du smra ba gang yin pa 'di ni 'phags pa rnams kyi tha snyad yin la/ bzlog ste smra ba ni 'phags pa ma yin pa rnams kyi tha snyad yin no".
(33)
See MAP. p.221. "don dam par ni dpyad na yod pa 'ga' yang ma grub pa'i phyir yod par yang khas mi len la med par (pa NP)
yang khas mi len te/ med pa ni dngos po ldog pa'i mtshan nyid yin pa'i phyir yod pa ma grub na yod pa sngon du 'gro ba can gyi med pa yang ma grub pa'i phyir ro".
(34)
See Śastri g. "The Nyāyasūtras Vātsyāyaṇa's Bhāṣya",Delhi,Śrīsatguru Publications,1984,p.8. "pravṛttyapāye janmāpaiti janmāpāye duḥkhamapaiti duḥkhāpāye ca ātyantiko 'pavargo niḥśreyasamiti/"
(35)
See ibid. p.2 "pramāṇa-prameya-saṃśaya-prayojana-dṛṣṭānta-siddhānta-avayava-tarka-nirṇaya-vāda-jalpa-vitaṇḍa-ahetvā-ābhāsac chalajāti-nigrahasthānānāṃ tattvajñānām niḥśreya sā adhigamaḥ//1//".
:See ibid. p.23 "ātma-śarīra-indriya-artha-Buddhi-manaḥ pravṛtti-doṣa-pretyabhāva-phala-duḥkha-apavarga-astu prameyam//9//".
(36)
平川彰ほか編『講座・大乗仏教』(9 認識論と論理学)春秋社、1984、pp.43-52参照。例えば前述『ニャーヤスートラ』第二章の終わりのほうで、はっきりと誤った論難として「帰謬相似」を挙げている。:See ibid.p.58.
"prayukte hi hetau yaḥ prasaṅgo jāyate sa jātiḥ".
訳せば、「実に、正しい理由において、帰謬(Prasaṅga)が生じることが誤った論難である」。これはインド論証学的手法に対して帰謬という西洋論証学的論難を加えることを指し、具体的にはナーガールジュナが『中論』で用いている方法を指すものと思われる。
(37)
塚本啓祥『アショーカ王碑文』第三文明社、東京、1976、pp.27-35参照。アレクサンドロスがインドへ侵攻して以来、ギリシャ世界とインド世界は密接な関係を有していた。またナーガールジュナが生存していたと思われる一から二世紀に著わされたと思われる『ミリンダパンハ』という仏教文献に登場するミリンダ王はギリシャ系の王であったという。ところで、ナーガールジュナが中論で用いている論法は西洋の形式論理学の規則を外れないという(立川『「空」の構造』p.132参照)。ナーガールジュナが用いている論法は前注にも述べたように、インド論証学的立場からは異質のものであった。従って、ナーガールジュナがギリシアの論理学を知っており、それを『般若経』の解釈に用いた、という可能性もある、と思われるのだが、論拠に乏しい。それがナーガールジュナの独創によるものか、あるいは西洋論理学の影響によるものかについては、今のところ断定できない。しかしながら、便宜上、それを「西洋論理学的手法」と呼ぶことは、以上のような状況を考えるならば許されると思われる。
(38)
早島鏡正ほか著『インド思想史』東京大学出版会、1982、p.159参照。『アートマタットヴァヴィヴェーカ』の内容については次の論文がよくまとまっている。:laine j. "some remerks on The guṇaguṇibhedabhaṅga chapter in Udayana's ātmatattvaviveka",{journal of indian Philosophy 21},netherlands,Kluwer Academic,1993,pp.261-294.著者ウダヤナ(udayana)は仏教のジュニャーナシュリーミトラ(jñānaśrīmitra)やシヴァ教徒のバーサルバジュニャー(bhāsarvajñā)と同時代の論証学者で、仏教の所説を攻撃し、論破した。
(39)
See MAV. p.220. "byis pa'i gnas skabs nas bzung ste/ thams cad mkhyen pa'i ye shes kyi bar du myong ba gang ma brtags gcig pu na yid du 'ong ba'i rang bzhin la ni kho bos bkag pa med de/ yang dag par na (omi.in NP) 'bras bu snga na yod pa dang/ med pa dang/ gnyis ka dang/ gnyis ka ma yin par smra ba ser skya pa la sogs pas (par Vri) brtags pa gang yin pa de med do// de'i phyir chos thams cad rang bzhin med par smra ba 'di ni stong pa nyid kyi don log par mthong ba ma yin no// gang gi phyogs la yod pa dang// med dang yod med yod min pa// de la klan ka bya bar ni// yun ring du yang brjod mi nus//".
(40)
op. cit. "yod dang med dang yod med ces//khas mi len pa gang yin (C72a) pa//de la nan tan ldan pas kyang//cir (P70a) yang klan ka bya mi nus//".
(41)
水野弘元『原始仏教』(サーラ叢書 4)平楽寺、京都、1956、p.96参照。
(42)
佐伯旭雅『冠導阿毘達磨倶舎論』(1)法蔵館、京都、1978、p.49参照。この部分のサンスクリット原典は以下のようである。"ye dharmā viṣayaprativātena sapratidhā āvaraṇapratidhātenāpi ta iti catuḥkoṭikaḥ/ prathamā koṭiḥ saptacittadhātavo dharmadhātupradeśaśca yāḥ samprayuktaḥ/ dvitīyā pañca viṣayaḥ/ tṛtīyā pañcendriyāni/ caturthī dharmadhātupradeśaḥ samprayuktakavarjyaḥ/ Śāstrī S.D. "Abhidharmakoca and Bhāṣya",Varanasi,Bauddha Bhāratī,1987,p.81.このような「四句分別」はこの『アビダルマコーシャ』のあちこちに見ることができ、阿毘達磨文献がこの分類法をもちいて概念の整理を行なっていたことがうかがえる。また立川氏によれば、このような分類法は仏教独自のもので、その起原は初期仏教に遡れるという(立川『「空」の構造』p.131.)。
(43)
前述「(2.1.7.4)ブッダパーリタ注について」参照。三枝『中論』(上)p.95参照。
(44)
See MAP. p.223. "de'i phyir yang dag nyid du na zhes bya ba la sogs pa tshigs su bcad pa 'di ni slob dpon gyi (omi.in CD) bdag nyid kyi yin no//(P125b) 'dis ni tshad ma'i 'bras bu lung gi don dang sbyar ba 'am/ lung gi don tshad ma'i 'bras bu dang (N118a) sbyor bar byed do// 'dir yang gang gi phyir zhes bya ba la bltos (ltos CD) par bya ste/ des na don ni gang gi phyir dngos po (omi.in ṇP) 'ga' yang (omi.in NP) yang dag par bsgrub pa med pa de'i (D119a) phyir chos thams (C119a) cad ma skyes pa'o zhes bya sangs rgyas bcom ldan 'das kyis gsungs so zhes bya ba 'di yin no//".
(45)
ディクナーガやダルマキールティなどはこれを示さないが、チャンドラキールティは示す。なお唯識三十論には前述のように聖言量が規定されている。
(46)
『法華経』には以下のような一文がある。「シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちが深い意味を秘めて語られたことばを(ほんとうに)知ることは、容易ではない。それはなぜであるか。(如来たちは)みずからに明証である法を、いろいろな巧みな方便と知見によって、すなわち原因や理由や喩えや根拠やことばの解釈や(教理の)設定によって、解き明かすからである。」
:松浪誠廉他訳『法華経 1』(大乗仏典 4)中央公論社、東京、1975、pp.40-41.参照。
:See Vaidya P.L. "Saddharmapuṇḍarīkasūtra",Buddhist Sanskrit Texts No.6,Darbhanga,Mithila Institute,1960,p.21,l.7-10. "durvijñeyaṃ śāriputra saṃdhābhāṣyaṃ tathāgatānāmarhatāṃ samyaksaṃbuddhānām | tatkasya hetoḥ? svapratyayān dharmān prakāśayanti vividha-upāya-kauśalya-jñānadarśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanārambaṇa-nirukti-prajñaptibhistair"
(47)
江島恵教『中観思想の展開』春秋社、東京、1980、p.421及びp.270参照。"tattvaprāsādaśikharārohaṇaṃ na hi yujyate/ tathyasaṃvṛtisopānam antareṇa yatas tataḥ//".なお、このげはハリバドラの『現観荘厳論』にも引かれている。
(48)
See MAP. p.233. "des na gang la la gal te tshul gsum pa'i rtags kyis bskyed pa'i blo don dam pa'i sgrar brjod na ni de'i tshe de yang kun rdzob kyi ngo bo yin pa'i phyir ji ltar na don dam pa nyid yin/".
(49)
op. cit. "de nyid kyis bzhag tu ni rigs pa ma yin te/ rang gis bdag nyid la byed pa 'gal ba'i phyir ro//".
(50)
See MAV. p.238.
(51)
See MAV. p.240.
(52)
See MAV. p.242. : 三枝充悳『中論』(中)第三文明社、東京、1984、p.405参照。
(53)
op. cit. : 梶山雄一ほか訳『大乗仏典』(14 龍樹論集)中央公論社、東京、1980、pp.73参照。
(54)
op. cit. : 前掲書p.126参照。
(55)
op. cit. : 前掲書p.183参照。
(56)
注(33)参照。
(57)
第二章第一節注(24)参照。
(58)
See MAV. p.42. "gang zag skad cig pa'am/ skad cig ma yin par brjod du med pa ni rang bzhin med pa nyid de/ nam mkha'i me tog la sogs pa ltar bsgrim mi dgos par grub po//".
訳せば以下のようになるであろう。「およそ刹那滅であるか、または刹那滅でないと説くことができないものは、無自性である。空中に咲く蓮華などのように、[それにたいする]努力は無用であることが成立するのである。」