仏教は知識のみでは、決して「しあわせになれない」。
実際に行ってみることによって、はじめて理解できたり、周りの人も幸せにすることができる。
仏教は本来「人の幸せ」のためにあるのであり、もしもそれを実行することにより、周りの人を苦しめたり、不幸にするようであれば、
存在しても意味が無い。
そのためには「自分」と「他人」の両者が、「幸せ」でなければならない。
どちらか一方であっても「不幸になってはならない」のだ。
この「自分の幸せ」「他人の幸せ」「社会貢献」の考え方が、仏教の根底に無くてはならない。
とにかく「社会との密接なつながり」「自分と他人の両者の幸福」を目指すことが必要だ。
社会を否定や破壊するのではなく、「どうやったら皆が幸せに生きられるのだろうか、笑って暮らせるのだろうか」と考えたのが、
仏陀その人ではなかったのか。
古い戒律を守ることが仏教ではないし、ちょっとばかりエキゾチックな外国の仏教を、真似てやってみることが仏教でもない。
極端な布施や極端な修行を強いることも仏教ではないだろう。
「極端」に走らず、落ち着いて世間を観察すれば、「本当の幸せ」が見えてくると思うのだが、いかがだろうか。
仏教を勉強する利益があるとすれば、「ちょっと視点を変えてみる」という程度である。
大切な日常生活を犠牲にしてはいけない。仏教は、「毎日の生活の中で実行できるもの」であると思う。
しかし、どうしても深い仏教の教えを悟りたいと思うのであれば、日常生活を捨てて、修行をしなければならない。
全てを捨てて、道に入る。
それは、おそらく、言葉で言い表せないほどの変化を我が身に強いることとなるだろう。
それに耐えられるだろうか。耐えられないようであれば、素直に引き返した方がいい。
勉強することはいっこうに差し支えないのだから。しかし、それを出家して修行するとなると、
全く話が違う。
大乗仏教(サンスクリットでmahAyAna,チベット語でtheg pa chen po,漢語で大乗)は、一般に小乗(サンスクリットでhInayaAna,「劣乗」と訳されることもあり、大乗から見た場合、「劣っている」とされる)と対比された場合、言われることである。
一般に上座部系の説一切有部を指して言われたと思われるが、大乗仏教自体が、説一切有部の教義を前提に組織されていることから、一概に「大乗」「小乗」の区別をつけることは、正確な理解とは言えない。
いわゆる「小乗」の仏教徒が「大乗」の仏教徒とともに仏教を実践し、学習していたとする見方が、今日では有力になっている。
アフガニスタンやインドなどから出土する仏教の遺跡からは、「大乗教団」の存在を示す証拠は、甚だ少ない。
現代まで伝わるチベットの僧院では、いわゆる「小乗」の戒律が守られ、「小乗」の論書なども学ばれている。
一昔前まで、「大乗仏教」は、仏の舍利を納めた仏塔を崇拝する在家信者の集団が興したという説が有力であり、未だに定説のようになっている。
しかし、筆者は「大乗仏教」は説一切有部などのいわゆる「小乗」の中から発生し、民間に流布したものである、と考える。
理由として、
をあげておく。
般若経典群は、玄奘訳「大般若経」600巻として、漢語に翻訳されている。またチベット語にも訳され、サンスクリット原典も多数得られる。
最も有名な般若経は「般若心経」(サンスクリットでprajJApAramitA-hRdaya-sUtraM)で般若経の最も重要な部分の要約であると考えられる。
では、般若経は何を説いているのか。
これには古来からさまざまな解釈が、インド、チベット、中国、日本で考えられて来た。
その中でも、最も体系的で、最も量が多いのが、チベットでの解釈学である。
そのうちの中心となる文献が、ここで紹介する「現観荘厳論」である。
*参考文献
『現観荘厳論』は、大品系般若経『2万5千頌般若経』の注釈である。
maitreya(弥勒菩薩)が説いたと言われているが、歴史上に明確な形で現れてくるのはArya vimuktisena(聖解脱軍)が注釈を表してからである。
その後 haribhadra(獅子賢)が大、小の注釈を表した。(haribhadraの注釈のサンスクリット原典は、日本の荻原雲来によって校訂され、出版されている。)
これ以後、般若経解釈の流れとして、インド、チベットに大きな影響を与えていく。
『現観荘厳論』は、般若経の注釈であるから、まずは日本語訳のある般若経を読んでみよう。
一番有名なのが、『般若心経』であろう。あとは『金剛般若経』が有名である。
何が書いてあるのか。よく知られているが、これほど難しい経典もあるまい。
一般の方は、ほとんど呪文のようにしか、思われないであろう。
しかし、これは呪文を含んでいる(陀羅尼の部分)が、ほとんどの部分は文として成り立っている。
つまり、日本語に翻訳できる。例えば
(サンスクリット)
rūpaṁ śūnyatā, śūnyataiva rūpam
(チベット)
gzugs stong pa 'o/ stong pa nyid gzugs so/
(漢語)
色即是空,空即是色
(日本語)チベット語訳から。。。
実体は、実体がない。実体がないことは、実体である。
śūnyatā(空であること)は、しばしば空性と訳され、無自性(asvabhāva)
とも言われる。不変の実体でないことを意味する。
しかしこれは、nothingや、not exsit ではない。0でもない。
山口瑞鳳先生は、「歴時的因果の不断の相続」であると説明されている。
例えば、火のついたたいまつを振り回すとき、遠くから見ていると、それが光の輪のように見える。
実際は一つの光であるが、振り回すということによって、実際には存在しない光の輪が見える。
われわれが目にする現象は、突き詰めれば、そのような「幻」であって、実際にあるのは、もっとちがった物だ。
あるいは、鏡に映る物は、実際の物とは、ちがう。
パソコンの画面も、実際はドットの集合であるが、それが文字や映像を映しているように見える。
インクの集合が文字を形成し、あたかも、概念を表しているように見える。
しかし、それは普通に目にしている限りは、人間社会に不可欠の要素であり、これを否定することはできない。
しかしながら厳密に検討すれば、それらは実際にはちがった姿をしている。
実体がないままに、現れている、この世界は、本当のところは因果の理法によって、現れている。
因果の理法は、決してなくなることは無い。
つまり 「実体がないことは、実体なのである」。
実体ないままに、現れている。それは、決して「無」ではない。現れているから、経験される。
それが般若経の説く「仏教」なのだ。
「空」は、すべてを否定することではなく、全てを「卓越した見地から見る」ことである。
これを概念で表したのが『現観荘厳論』のテーマにもなる訳である。
『現観荘厳論』は、般若経の教えを、いわば目に見える形にしたものであって、般若の智慧を完成するためのプロセスを詳細に説いているのである。
□「8句義」
智慧の完成(=般若波羅蜜)は、以下の8つを完成することである。これを完全に完成したのが、ブッダである。これらを全てそなえていなければ、ブッダとは言えないのである。
いかに「成仏」することが至難の技であるか、理解できるであろう。長い長い修練を経なければ、完成できない。
普通の人間がこの境地に至ることはできない。なぜなら、我々は煩悩の発生源である「身体を持っているから」。身体がある限り、ブッダの境地には決して至れないことは、最後の「法身」の項目が設定されていることでわかるだろう。
1、「一切相智者性(すべての特徴を知っていること)」
2、「道智者性(仏道の実践を知っていること)」
3、「一切智者性(すべてを知っていること)」
4、「一切相現等覚(すべての特徴をまのあたりにさとること)」
5、「頂きに至ったもの」
6、「次第のもの」
7、「一刹那現等覚(一瞬でさとること)」
8、「法身(理法としての身体を持つこと)」