中観を勉強して行き着くのが、「深い意味での真理とは何か」という疑問である。
それは文字で捉えられないのはもちろんであるし、さらにどんな認識によっても知ることができない。
「仏の認識する世界」だという。

一般の人間は、煩悩やら固定観念の分厚い壁に覆われているから、仏の世界を見ることができない。

仏の世界にわずかでも近づきたいならば、戒律を守り、「仏教の教えを聞き」「研究し」「坐禅を実習する」ことが必要だ。

因果関係は決して虚しくないので、それらの「仏教の実習」は少しでも仏の認識に近付くための資糧となろう。

中観はこの世の真実を正しい論理に基づいて、理論的に「研究する」実習である。

この世の中のすべてのものは「縁起」している。つまり無明を条件として起き、生死に終わる。

あるいは、お互いに依存しあって成立している。

固定的な実体がないから、入れ替わり立ち替りしながら、一瞬も止まることなく、動き続けている。

それらを概念で捉えようとすること、そのことがすでに誤りであり、正しくこの世を見ていることにはならない。

目の前の赤裸々な現実は、因果の連続である。その変化は、正しく目に見えないので、あたかも「在る、存在する」ように見えているが、実際は存在していない。ちょうど鏡に映った映像のようなものだ。写真と現実とは全く違うものだ。

写真でない「ほんものの現実」を生きることこそが「中道」である。

ゆめまぼろしのような「神」やら「幽霊」やら、「金」やら、「ある」とか「ない」とか。

そういうものがよく見れば全くの想像の生み出すものであると見抜き、直に現実に向かい合うこと。

そして最後にはその「赤裸々な現実」の本質を見抜くこと。そして、それを知ったなら、ただひたすら、仏の行いを全うすること。

それが中観の目指す世界だ。